No.13新着 江戸時代前期(1603〜1700年ごろ) 戦が終わり、幕府は窓口を四つに絞った
1603年に徳川家康が征夷大将軍となり、大坂の陣で豊臣家を滅ぼして戦乱の世を終わらせた。幕府は武家諸法度と参勤交代で大名を抑え、島原の乱のあとポルトガル船を締め出し、外との窓口を長崎・対馬・薩摩・松前の四つに絞った。これを「鎖国」と呼ぶかどうかは今も議論がある。
本文と出典
この時代のあらまし
徳川家康は慶長8年2月12日(1603年3月24日)に征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いた。ただし大坂城には豊臣秀頼が残っていた。方広寺の鐘の銘文をめぐる争いをきっかけに、1614年に大坂冬の陣、1615年に夏の陣が起き、5月7日に大坂城は落ち、秀頼と母の淀殿は自害した。応仁の乱から約150年続いた大きな戦はここで終わり、これを「元和偃武」と呼ぶ。
幕府は大名を「藩」として残しながら、全体を「公儀」として治めた。これを幕藩体制という。1615年の武家諸法度(元和令、以心崇伝が起草、13か条)は、城を直すときは届け出ること、新しい城を築かないこと、勝手に婚姻を結ばないことを定めた。1635年に三代将軍家光が出した寛永令(林羅山が起草、19か条)で、大名が毎年4月に江戸へ参勤することが義務になった。原則は1年ごとの交代で、大名の妻子は江戸に住まわされた。旅費と江戸での暮らしで大名の財政は苦しくなったが、街道や宿場が整い、各地の文化が行き来するようにもなった。
17世紀後半、元禄年間(1688〜1704年)前後には、上方の町人を担い手とする元禄文化が花開いた。井原西鶴は『日本永代蔵』で町人の金もうけを描き、松尾芭蕉は『奥の細道』を残し、近松門左衛門は『曾根崎心中』を書いた。尾形光琳の屏風、菱川師宣の『見返り美人図』もこのころである。戦のない世で農村の商品作物と都市の商いが伸びたことが背景にある。
主なできごと
・1603年(慶長8年) 徳川家康が征夷大将軍となる
・1607年 江戸時代最初の朝鮮通信使
・1609年(慶長14年) 薩摩の島津氏が琉球に攻め入る
・1614年・1615年 大坂冬の陣・夏の陣。豊臣家が滅ぶ
・1615年(元和元年) 武家諸法度(元和令)
・1623年 イギリスが平戸の商館を閉じる
・1634〜1636年 長崎に出島を築く
・1635年(寛永12年) 武家諸法度(寛永令)で参勤交代を制度化
・1637年(寛永14年)10月25日〜1638年2月28日 島原の乱
・1639年(寛永16年) ポルトガル船の来航を禁止
・1641年(寛永18年) 平戸のオランダ商館を出島に移す
・1688〜1704年 元禄年間
文字の記録から分かること
島原の乱は、島原の松倉勝家と天草の寺沢堅高が払いきれない年貢を課し、飢饉とキリシタンへの厳しい取り締まりが重なって起きた。16歳ほどの天草四郎(益田時貞)を中心に、旧有馬家・小西家の浪人も加わり、廃城の原城に籠もった。幕府軍は力攻めで失敗し、松平信綱が兵糧攻めに切り替えて落とした。このときオランダ東インド会社の船が海から原城を砲撃している。乱のあと松倉勝家は処刑された。
出島は1634年から1636年にかけて、もともとはポルトガル人を管理するために築かれた人工の島で、面積は約1.5ヘクタールある。1639年にポルトガル船が締め出されると、1641年に平戸のオランダ商館がここへ移された。1922年に国の史跡となり、長崎市が1996年から復元を進めている。
世界では
中国では1644年に李自成が北京を落として明が滅び、同じ年に清が北京に入った。明の復興を掲げた鄭成功は、1661年に台湾のオランダ勢力を破って拠点を築いた。長崎には清の商船も来航し、「長崎口」はオランダと中国の両方に開いていた。
朝鮮とは対馬藩の宗氏が間に立った。朝鮮通信使は1607年から1811年まで12回来ており、対馬藩は釜山の倭館に家臣を置いて貿易と連絡にあたった。琉球は1609年の島津氏の侵攻のあと、薩摩の支配を受けながら中国への朝貢も続け、将軍の代替わりなどに江戸へ使節を送った。
ヨーロッパではカトリックのポルトガル・スペインと、プロテスタントのオランダ・イギリスが海の上で争っていた。布教をしないオランダが島原の乱で幕府に協力し、日本との貿易を独り占めする立場を得た。イギリスはオランダとの競争に敗れ、1623年に平戸から引き揚げている。
評価の分かれる点
「鎖国」という言葉は、この時代にはなかった。長崎のオランダ通詞志筑忠雄が、1801年にケンペルの『日本誌』の一章を訳して『鎖国論』と題したのが始まりとされ、広まったのは明治以降である。1980年ごろから荒野泰典らが、松前(蝦夷地)・長崎(オランダと中国)・対馬(朝鮮)・薩摩(琉球)の「四つの口」で外とつながっていたと唱え、中国や朝鮮の「海禁」と同じ種類の政策とみる考え方が広がった。山川出版社の『日本史小辞典』も「文字どおり国を閉ざしたわけではない」と説明している。2017年には学習指導要領の案から「鎖国」を消す動きが報じられたが、反対意見を受けて「鎖国などの幕府の対外政策」という書き方に落ち着いた。「海禁」への言い換えには、研究がまだ十分でないとの批判もある。
くらさんの考察
幕府が閉ざしたのは「国」というより、キリスト教と、幕府が管理できない貿易だったと考えられる。窓口を四つに限り、それぞれを長崎奉行・対馬藩・薩摩藩・松前藩に任せることで、貿易の利益と海外の情報を幕府の目の届く範囲に置いた。「鎖国」も「四つの口」も、どちらか一方だけでは実態を言い当てていない。外国人が自由に来られなかった点では閉じており、限られた相手とは途切れずに付き合っていた点では開いていたと考えられる。
ジージへの問いかけ
・島原の乱はキリシタンの反乱だったのか、重い年貢への一揆だったのか。
・オランダはなぜ「布教をしない」と約束できたのか。ポルトガルとの違いはどこにあったのか。
・ジージが子どもの頃の教科書では「鎖国」をどう習っただろう。
出典
・ウィキペディア「江戸幕府」 https://ja.wikipedia.org/wiki/江戸幕府
・ウィキペディア「大坂の陣」 https://ja.wikipedia.org/wiki/大坂の陣
・ウィキペディア「武家諸法度」 https://ja.wikipedia.org/wiki/武家諸法度
・ウィキペディア「島原の乱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/島原の乱
・ウィキペディア「鎖国」 https://ja.wikipedia.org/wiki/鎖国
・ウィキペディア「出島」 https://ja.wikipedia.org/wiki/出島
・ウィキペディア「琉球侵攻」 https://ja.wikipedia.org/wiki/琉球侵攻
・ウィキペディア「朝鮮通信使」 https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮通信使
・ウィキペディア「明清交替」 https://ja.wikipedia.org/wiki/明清交替
・ウィキペディア「元禄文化」 https://ja.wikipedia.org/wiki/元禄文化
・ウィキペディア「フェートン号事件」 https://ja.wikipedia.org/wiki/フェートン号事件
・コトバンク「鎖国」 https://kotobank.jp/word/鎖国
・コトバンク「参勤交代」 https://kotobank.jp/word/参勤交代
動画
・【社会】 歴史-42 江戸時代④ ・ 貿易編(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=BQLTkUreZ1A
・【江戸時代】175 長崎の出島で貿易統制!鎖国とは何か?【日本史】(YouTube高校 / 日本史・世界史)https://www.youtube.com/watch?v=05ylIKHtveQ
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