No.14新着 江戸時代中・後期(1700年ごろ〜1853) 改革と飢饉をくり返すうちに、外の船が近づいてきた
18世紀から19世紀半ば、幕府は財政難に悩み、享保・寛政・天保の三つの改革と田沼意次の政治をくり返した。天明の飢饉では東北で多くの人が亡くなり、都市では打ちこわしが起きた。一方で寺子屋が広がり、蘭学が育ち、伊能忠敬が日本地図をつくった。そこへロシアやイギリスの船が現れ、アヘン戦争で清が敗れた知らせが幕府を揺さぶった。
本文と出典
この時代のあらまし
江戸時代の半ばになると、米の年貢を基礎にした幕府と藩の財政は、商品の流通が広がるにつれて苦しくなった。八代将軍徳川吉宗の享保の改革(1716〜1745年)は、大名に1万石につき100石の米を出させる上米の制(1722年)、目安箱(1721年)、豊作でも凶作でも年貢を一定にする定免法、新田開発、判例をまとめた公事方御定書(1742年)などで立て直しを図った。1720年にはキリスト教に関係しない洋書の輸入を認め、のちの蘭学の下地になった。
1772年に老中となった田沼意次は、米以外から収入を得ようとした。株仲間に特権を与えて運上金・冥加金を取り、印旛沼・手賀沼の干拓に取りかかり、1785年には蝦夷地に調査隊を送った。しかし天明の飢饉のさなかの1786年に失脚した。
天明の飢饉(1782〜1787年)は、東北の冷害に、1783年の岩木山と浅間山の噴火が重なって起きた。弘前藩では1783〜1784年に10万人以上、盛岡藩では人口の4分の1にあたる7万5千人以上が亡くなったとされる。1787年5月には江戸と大坂で米屋が襲われる打ちこわしが起き、これを受けて老中松平定信の寛政の改革(1787〜1793年)が始まった。定信は米を蓄える囲米、旗本の借金を帳消しにする棄捐令、朱子学以外の講義を禁じる寛政異学の禁などを行った。
19世紀に入ると、天保の飢饉の中で1837年に元大坂町奉行所与力の大塩平八郎が大坂で兵を挙げた。乱は半日ほどで鎮められたが、大坂の約5分の1が焼けた。幕府の元役人が起こした乱は大きな衝撃を与えた。老中水野忠邦の天保の改革(1841〜1843年)は、倹約令、株仲間の解散、江戸に出てきた農民を帰す人返し令を出したが、江戸・大坂周辺を幕府の直轄にする上知令が大名・旗本の反対で行き詰まり、忠邦は1843年に退いた。
主なできごと
・1716年(享保元年) 徳川吉宗の享保の改革が始まる
・1720年 キリスト教に関係しない洋書の輸入を認める
・1772年(明和9年) 田沼意次が老中になる
・1774年(安永3年) 『解体新書』刊行
・1782〜1787年 天明の飢饉(1783年に浅間山噴火)
・1786年 田沼意次が老中を退く
・1787年(天明7年) 江戸・大坂で打ちこわし。寛政の改革が始まる
・1792年 ロシアのラクスマンが根室に来る
・1800年(寛政12年) 伊能忠敬が蝦夷地の測量に出る
・1804年 ロシアのレザノフが長崎に来る
・1808年(文化5年) イギリス船フェートン号が長崎に侵入
・1825年(文政8年) 異国船打払令
・1837年(天保8年) 大塩平八郎の乱。アメリカ船モリソン号を砲撃
・1840〜1842年 アヘン戦争
・1841〜1843年 天保の改革。1842年に異国船打払令をやめ、薪水給与令を出す
文字の記録から分かること
『解体新書』は、杉田玄白・前野良沢・中川淳庵らが1771年に江戸の小塚原で腑分け(解剖)を見て、手元のオランダ語の解剖書が正確なことに驚いたのが始まりである。ドイツ人クルムスの解剖書のオランダ語版を、辞書もない中で訳し、1774年に刊行した。主な訳者は良沢だが、著者名は玄白になっている。「神経」「軟骨」など今も使う言葉がここから生まれた。
伊能忠敬は1745年に生まれ、幕府の天文方高橋至時に学んだ。1800年の蝦夷地測量から1816年まで10回の測量を行い、1818年に亡くなった。『大日本沿海輿地全図』は、忠敬の死後の1821年に完成した。
寺子屋は、文部省の調査をまとめた『日本教育史資料』で全国約1万6560軒とされ、読み書きとそろばんを、往来物という手紙文の教科書で教えた。1877年の滋賀県の調査では、6歳以上で自分の名前を書ける人は男子89%、女子39%で、地域差も大きかった。
世界では
イギリスでは1760年代から産業革命が進んだ。ワットは1765年に蒸気機関の改良を思いつき、1776年に実用の機関が完成した。1825年には営業鉄道が走り始める。同じ1776年、アメリカの13植民地が独立宣言を出し、1789年にはフランス革命が始まった。
フランス革命は長崎にも波を届けた。革命戦争でオランダはフランスに占領され、1806年にはナポレオンの弟ルイがオランダ国王になった。オランダの植民地を奪おうとしたイギリスの軍艦フェートン号が1808年に長崎へ入り込み、責任を取って長崎奉行の松平康英が自害した。北からは、1792年にロシアのラクスマンが漂流民大黒屋光太夫を連れて根室に来ており、幕府は通商を求めるなら長崎へ行くよう伝えた。
幕府は1825年に異国船打払令を出したが、清がイギリスに敗れたアヘン戦争(1840〜1842年)の知らせはオランダ船や中国船を通じて伝わり、幕府は1842年に打払令をやめて遭難船に燃料や食料を与える薪水給与令に改めた。南京条約で清は香港島を割譲し、5つの港を開いた。魏源の『海国図志』は日本にも伝わり、佐久間象山や吉田松陰が読んでいる。
評価の分かれる点
田沼意次は長く「賄賂政治家」とされてきた。1970年代以降、大石慎三郎らが悪評の多くは失脚後に反対派がつくったものだと論じて見直しが進んだが、藤田覚は家臣の統制が甘く賄賂を許したと指摘しており、評価は定まっていない。寺子屋による識字率の高さもよく語られるが、「名前が書ける」と「読める」では基準が違い、外国との単純な比較は難しい。天明の飢饉の原因で火山の影響がどこまで大きかったかも、有力説ではあるが証明されてはいない。
くらさんの考察
三つの改革は、どれも「米の年貢で国を回す」仕組みを立て直そうとした点で共通していると考えられる。田沼の政治はその枠を出て商いから税を取ろうとしたが、飢饉と重なって退いた。そのあいだに、洋書の輸入の緩和から蘭学が育ち、解剖や測量のように「自分の目で確かめる」学問が広がった。アヘン戦争の知らせに幕府がすばやく方針を変えられたのは、長崎を通じた情報の窓口があったからだと考えられる。
ジージへの問いかけ
・同じ飢饉でも、なぜ東北の被害がとびぬけて大きかったのだろう。
・田沼意次と松平定信、ジージならどちらの政治を選ぶか。
・アヘン戦争の知らせを聞いた幕府の役人は、何がいちばん怖かったのだろう。
出典
・ウィキペディア「享保の改革」 https://ja.wikipedia.org/wiki/享保の改革
・ウィキペディア「田沼意次」 https://ja.wikipedia.org/wiki/田沼意次
・ウィキペディア「寛政の改革」 https://ja.wikipedia.org/wiki/寛政の改革
・ウィキペディア「天保の改革」 https://ja.wikipedia.org/wiki/天保の改革
・ウィキペディア「天明の大飢饉」 https://ja.wikipedia.org/wiki/天明の大飢饉
・ウィキペディア「大塩平八郎の乱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/大塩平八郎の乱
・ウィキペディア「解体新書」 https://ja.wikipedia.org/wiki/解体新書
・ウィキペディア「伊能忠敬」 https://ja.wikipedia.org/wiki/伊能忠敬
・ウィキペディア「寺子屋」 https://ja.wikipedia.org/wiki/寺子屋
・ウィキペディア「異国船打払令」 https://ja.wikipedia.org/wiki/異国船打払令
・ウィキペディア「アダム・ラクスマン」 https://ja.wikipedia.org/wiki/アダム・ラクスマン
・ウィキペディア「フェートン号事件」 https://ja.wikipedia.org/wiki/フェートン号事件
・ウィキペディア「阿片戦争」 https://ja.wikipedia.org/wiki/阿片戦争
・ウィキペディア「産業革命」 https://ja.wikipedia.org/wiki/産業革命
・ウィキペディア「アメリカ独立宣言」 https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ独立宣言
・ウィキペディア「フランス革命」 https://ja.wikipedia.org/wiki/フランス革命
動画
・【社会】 歴史-46 江戸時代⑧ ・ 1つ目の改革編(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=GsAAjy-Ta28
・【江戸時代】183 徳川吉宗と享保の改革【日本史】(YouTube高校 / 日本史・世界史)https://www.youtube.com/watch?v=bkztetsiWAg
関連動画
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