No.15新着 幕末(1853〜1867) 黒船から大政奉還まで、14年で幕府が政権を返した
1853年にペリーの艦隊が浦賀に来て、翌年の日米和親条約で日本は港を開いた。1858年に天皇の許しのないまま通商条約が結ばれ、反対派を罰した井伊直弼は桜田門外で殺された。攘夷に失敗した長州と薩摩が1866年に手を結び、1867年に徳川慶喜は政権を朝廷に返した。
本文と出典
この時代のあらまし
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカのペリーが4隻の艦隊を率いて浦賀沖に現れ、大統領フィルモアの国書を渡した。難破した船員の保護と、石炭・食料・水の補給港を求める内容だった。老中首座の阿部正弘は返事を1年延ばし、大名や旗本、さらに庶民にまで意見を求めた。幕府が開かれて以来初めてのことで、政治をみんなで話し合って決めるべきだという考えが広がり、幕府の権威はかえって下がった。
翌1854年1月にペリーは艦隊を増やして再び来航し、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に日米和親条約が結ばれた。下田と箱館を開き、燃料や食料を与えることを約束したが、貿易は含まない。続いてイギリス・ロシア・オランダとも和親条約を結んだ。
貿易を求めたのはアメリカの総領事ハリスである。孝明天皇は条約の許し(勅許)を拒んだが、大老井伊直弼のもとで幕府は安政5年6月19日(1858年7月29日)に日米修好通商条約に調印した。神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)を開くことを決めたが、日本で罪を犯したアメリカ人をアメリカの領事が裁く領事裁判権を認め、日本は関税を自分で決める権利を持たなかった。同じ年にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ(安政五カ国条約)。
井伊直弼は条約と将軍の跡継ぎ問題で対立した人々を厳しく罰した。これが安政の大獄(1858〜1859年)で、吉田松陰・橋本左内らが死罪となり、100人以上が処分された。その反発から、安政7年3月3日(1860年3月24日)、水戸の脱藩浪士17人と薩摩藩士1人が江戸城桜田門の外で直弼を殺した(桜田門外の変)。幕府の権威は大きく傷つき、尊王攘夷の運動が激しくなっていく。
主なできごと
・1853年(嘉永6年)6月3日 ペリーが浦賀に来航
・1854年(嘉永7年)3月3日 日米和親条約
・1858年(安政5年)6月19日 日米修好通商条約。安政の大獄が始まる
・1860年(安政7年)3月3日 桜田門外の変
・1863年(文久3年) 長州藩が下関で外国船を砲撃。薩英戦争。八月十八日の政変で長州が京都から追われる
・1864年(元治元年) 禁門の変。8月、英仏蘭米の四国連合艦隊が下関の砲台を攻撃
・1866年(慶応2年)1月21日 薩長同盟
・1867年(慶応3年)10月14日 徳川慶喜が大政奉還を申し出る。翌日朝廷が受け入れる
・1867年12月9日(1868年1月3日) 王政復古の大号令
文字の記録から分かること
薩長同盟の中身は、長州の木戸孝允が会談の内容を6か条にまとめて坂本龍馬に送り、龍馬が「内容に相違ない」と裏に書いて返した書状で分かる。会談は京都の小松帯刀邸で、薩摩の西郷隆盛・小松帯刀と木戸のあいだで行われた。
大政奉還は、土佐藩の山内容堂が慶喜に建白し、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に慶喜が朝廷に上表した。同じ日、岩倉具視から薩摩と長州に「討幕の密勅」が出されたが、日付や天皇の許しの手続きを欠き、偽物ではないかと疑われている。慶喜は、朝廷には政治を動かす力がなく、新しい政府の中でも徳川家が実権を保てると考えていたとされる。しかし12月9日の王政復古の大号令で幕府は廃止された。
世界では
アメリカが日本を開かせたかった理由は二つある。太平洋で鯨をとる船の補給港が要ったことと、米墨戦争でカリフォルニアを手に入れ、清との貿易を広げようとしていたことだ。日本はその航路の上にあった。ところが1861年から1865年まで南北戦争が起き、アメリカは日本から手を引いた形になった。その後の戊辰戦争では、イギリスが倒幕側、フランスが幕府側に近づき、南北戦争で使われた中古の小銃が大量に日本へ入った。
ヨーロッパの力を日本は身をもって知った。1863年に長州藩は下関海峡を通る外国船を砲撃したが、アメリカ・フランスの反撃を受け、1864年には四国連合艦隊に砲台を占領された。同じ1863年、薩摩もイギリス艦隊と鹿児島湾で戦った。長州は幕府の下での攘夷は無理だと悟り、イギリスに近づいて軍備を新しくした。
清はアヘン戦争に敗れて港を開いており、その様子は魏源の『海国図志』などで日本に伝わっていた。朝鮮とは対馬藩を通じた関係が続いていたが、1811年の通信使を最後に使節の往来は止まっていた。
評価の分かれる点
薩長同盟は、倒幕のための軍事同盟だったとする見方が一般的である。これに対し青山忠正らは、書状の中身は長州の復権を薩摩が支えるというもので、「倒幕」は読み取れないと論じている。相手は幕府そのものではなく、一橋慶喜・会津・桑名の「一会桑」だったとする説もある。大政奉還も、慶喜が政権を手放したのか、徳川の実権を守るための一手だったのか、見方が分かれる。
くらさんの考察
14年という短さで幕府が政権を返したのは、黒船そのものより、外交を決める手続きが崩れたからだと考えられる。阿部正弘が広く意見を求めたことで、幕府だけで決める形が揺らいだ。井伊直弼は勅許なしで調印し、反対派を力で抑えたが、その本人が殺され、天皇の意思が政治の旗印になった。長州と薩摩はそれぞれ西洋と戦って負け、攘夷では国を守れないと知ったうえで手を結んだ。「攘夷」を叫んだ側が、実際には開国と軍の近代化へ進んだ点がこの時代のねじれだと考えられる。
ジージへの問いかけ
・阿部正弘が庶民にまで意見を求めたのは、正しいやり方だったのだろうか。
・井伊直弼が勅許を待っていたら、歴史はどう変わっただろう。
・慶喜は大政奉還のとき、何を守ろうとしていたのか。
出典
・ウィキペディア「黒船来航」 https://ja.wikipedia.org/wiki/黒船来航
・ウィキペディア「日米和親条約」 https://ja.wikipedia.org/wiki/日米和親条約
・ウィキペディア「日米修好通商条約」 https://ja.wikipedia.org/wiki/日米修好通商条約
・ウィキペディア「安政の大獄」 https://ja.wikipedia.org/wiki/安政の大獄
・ウィキペディア「桜田門外の変」 https://ja.wikipedia.org/wiki/桜田門外の変
・ウィキペディア「下関戦争」 https://ja.wikipedia.org/wiki/下関戦争
・ウィキペディア「生麦事件」 https://ja.wikipedia.org/wiki/生麦事件
・ウィキペディア「薩長同盟」 https://ja.wikipedia.org/wiki/薩長同盟
・ウィキペディア「大政奉還」 https://ja.wikipedia.org/wiki/大政奉還
・ウィキペディア「南北戦争」 https://ja.wikipedia.org/wiki/南北戦争
・ウィキペディア「阿片戦争」 https://ja.wikipedia.org/wiki/阿片戦争
・ウィキペディア「朝鮮通信使」 https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮通信使
動画
・【社会】 歴史-54 江戸時代⑫ ・ 開国編(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=oHOY5Yu3rWs
・【幕末】189 忙しい人のための幕末【日本史】(YouTube高校 / 日本史・世界史)https://www.youtube.com/watch?v=vjb0vMCN30c
関連動画
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