No.19新着 占領と戦後改革(1945〜1955) GHQのもとで作り直された国のかたち
敗戦後の日本は、マッカーサーを最高司令官とするGHQの間接統治のもとで、日本国憲法の制定、農地改革、財閥解体などの改革を受けた。冷戦と朝鮮戦争で占領の方針は変わり、警察予備隊が作られ、1951年のサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を経て、1952年に主権を回復した。1955年には自由民主党と社会党が向き合う「55年体制」が始まる。
本文と出典
この時代のあらまし
1945年10月2日、東京に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれた。最高司令官はダグラス・マッカーサーで、実質はアメリカ単独の占領だった。日本政府はそのまま残され、GHQの指令を政府が実行する間接統治の形がとられた。
占領の初めの目的は、日本が再び戦争をしない国にすることだった。GHQは軍隊を解体し、戦争指導者を逮捕し、公職追放と検閲を行った。いわゆる五大改革指令(女性の参政権、労働組合の奨励、教育の改革、圧政的な制度の撤廃、経済の民主化)を出し、財閥解体、農地改革、警察の分権化、六・三・三・四制の学校制度などが進められた。
改革の中心が憲法である。日本政府の松本委員会の案はGHQに退けられ、マッカーサー草案を骨組みにした政府案が帝国議会の審議と枢密院の可決を経て、大日本帝国憲法を改正する形で成立した。日本国憲法は1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行された。天皇は国の象徴となり、国政に関する権能を持たない。前文に示された国民主権・基本的人権の尊重・平和主義が基本原理とされ、第9条は戦争の放棄・戦力の不保持・交戦権の否認を定めた。
農地改革は、地主から農地を買い上げて小作人に売り渡すものだった。1947年から1950年にかけて、政府は約237万人の地主から約193万町歩を買い、約475万人の小作農に売った。インフレで代金の実質的な価値は小さくなり、小作地の割合は約46%から約10%に下がって、地主と小作の関係はほぼなくなった。
占領の方針は冷戦の進行とともに変わった。公職追放はゆるめられ、再軍備に向かう動きが出てきた(「逆コース」)。1950年6月25日に北朝鮮軍が38度線を越えて朝鮮戦争が始まると、在日米軍が朝鮮半島に移り、マッカーサーは7月8日の書簡で吉田茂首相に約7万5千人の警察予備隊を作るよう求めた。警察予備隊は8月10日に設けられ、1952年10月に保安隊へ改められた。在日米軍の物資の注文(朝鮮特需)は日本の経済を活気づけた。
1951年9月8日、サンフランシスコで平和条約が結ばれ、同じ日に旧日米安全保障条約が吉田首相の単独署名で結ばれた。条約は1952年4月28日に発効し、GHQは廃止され、日本は主権を回復した。1955年には分裂していた社会党が再び一つになり、11月に保守政党が合同して自由民主党ができた。自民党が議席の約3分の2、社会党などが約3分の1を占める「55年体制」は、1993年まで続く。
主なできごと
・1945年9月2日 降伏文書に署名
・1945年10月2日 GHQが東京に置かれる
・1946年5月3日 極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷
・1946年11月3日 日本国憲法を公布
・1946年 自作農創設特別措置法。農地改革が本格化
・1947年5月3日 日本国憲法を施行
・1948年11月 東京裁判の判決。12月23日に7人の死刑を執行
・1950年6月25日 朝鮮戦争が始まる
・1950年8月10日 警察予備隊を設置
・1951年9月8日 サンフランシスコ平和条約と旧日米安全保障条約に署名
・1952年4月28日 平和条約発効。日本が主権を回復
・1952年10月15日 警察予備隊を保安隊に改める
・1953年7月27日 朝鮮戦争の休戦協定
・1955年 社会党の再統一と、自由民主党の結成(55年体制)
文字の記録から分かること
極東国際軍事裁判は1946年5月3日に東京・市ヶ谷で開かれ、東条英機ら28人が起訴された。病死などを除く25人が有罪となり、東条英機・広田弘毅・板垣征四郎・木村兵太郎・松井石根・武藤章・土肥原賢二の7人が死刑とされた。インドのパール判事は、あとから作った法で裁くことはできないとして全員の無罪を主張する意見書を出している。
サンフランシスコ平和条約には49か国が署名した。ソ連・ポーランド・チェコスロバキアは会議に出たが署名せず、インドとビルマは欠席した。中華民国と中華人民共和国はどちらも招かれなかった。北緯29度以南の南西諸島(沖縄など)や小笠原諸島は、アメリカの信託統治とする提案に日本が同意する形で、アメリカの施政下に残された。
世界では
アメリカとソ連は、ドイツと日本に勝ったあと、互いを敵とする冷戦に入った。GHQの方針が改革から日本の経済復興と再軍備へ切り替わったのは、この冷戦のためである。
朝鮮半島は1945年の日本の統治終了後、北緯38度線で南をアメリカ、北をソ連が占領し、1948年に南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国ができた。1950年に始まった朝鮮戦争では、アメリカ中心の国連軍が韓国を、中国人民志願軍が北朝鮮を支え、ソ連も武器や訓練で北を助けた。1953年7月27日の休戦協定で戦闘は止まったが、平和条約はなく、休戦ラインがそのまま南北の境になった。
中国では1949年10月1日、毛沢東が天安門広場で中華人民共和国の建国を宣言し、国民党の中華民国政府は台湾に移った。平和条約の会議にどちらの中国も招かれなかったのは、この分裂のためだった。
評価の分かれる点
日本国憲法がGHQの草案をもとに作られたことは事実だが、それをどう評価するかは分かれる。法的にどう成立したと説明するかにも、八月革命説など複数の説がある。
平和条約で西側の国々とだけ講和するか(単独講和)、ソ連などを含むすべての国と講和するか(全面講和)は、当時大きな論争になった。吉田首相は単独講和を進め、南原繁らは全面講和を主張した。当時の世論調査では単独講和を支持する声が多かった。
東京裁判は、勝った側による裁き、あとから作った法の適用、連合国側の戦争犯罪が問われなかったことなどが批判される。一方で、日本軍の残虐行為を証拠にもとづいて認定したと評価する見方もある。この記事ではどちらかに決めない。
朝鮮戦争の死者数も推計に幅があり、民間人の犠牲は南北それぞれ約100万人規模とされるが、資料によって違う。
くらさんの考察
戦後改革のうち農地改革は、日本政府が戦前から用意していた法律を土台に、GHQが徹底を求めた形で進んだ。改革が短い期間でやり遂げられたのは、日本側にも準備があったためと考えられる。小作地の割合が約46%から約10%に下がったことは、農村の暮らしを大きく変えた一方、小さな農家が多い形を固定し、のちの大規模化を難しくしたとも指摘されている。
占領の10年は、前半の「戦争をしない国づくり」と、後半の「冷戦の味方づくり」がぶつかり合った時代だった。憲法第9条と警察予備隊が数年の間に並んで生まれたことが、自衛隊と憲法をめぐる議論が今も続く出発点になっていると考えられる。
ジージへの問いかけ
・ジージが生まれた1954年は、主権回復の2年後でした。子どものころ、占領の名残を感じたことはありますか。
・農地改革で土地を持った農家の話を、岩室や周りの村で聞いたことはありますか。
・単独講和と全面講和、ジージならどちらを選んだと思いますか。
出典
・ウィキペディア「連合国軍最高司令官総司令部」 https://ja.wikipedia.org/wiki/連合国軍最高司令官総司令部
・ウィキペディア「日本国憲法」 https://ja.wikipedia.org/wiki/日本国憲法
・ウィキペディア「農地改革」 https://ja.wikipedia.org/wiki/農地改革
・ウィキペディア「極東国際軍事裁判」 https://ja.wikipedia.org/wiki/極東国際軍事裁判
・ウィキペディア「朝鮮戦争」 https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮戦争
・ウィキペディア「警察予備隊」 https://ja.wikipedia.org/wiki/警察予備隊
・ウィキペディア「サンフランシスコ平和条約」 https://ja.wikipedia.org/wiki/サンフランシスコ平和条約
・ウィキペディア「55年体制」 https://ja.wikipedia.org/wiki/55年体制
・ウィキペディア「大韓民国」 https://ja.wikipedia.org/wiki/大韓民国
・ウィキペディア「中華人民共和国」 https://ja.wikipedia.org/wiki/中華人民共和国
動画
・【社会】 歴史-83 戦後の日本①(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=jv6iE1SLz6g
・【戦後】283 忙しい人のための占領期【日本史】(YouTube高校 / 日本史・世界史)https://www.youtube.com/watch?v=yt7GApHqNe4
関連動画
この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージが歴史QAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。