No.9新着 鎌倉時代(1185〜1333年) 東国の武士がつくった政権が、朝廷と並び、やがて朝廷を上回った
源頼朝が鎌倉に開いた幕府は、守護・地頭を全国に置き、頼朝の死後は北条氏が執権として動かした。承久の乱で朝廷に勝って西国にも力を広げ、御成敗式目で武士の法を定めた。しかしモンゴル帝国の元の襲来(元寇)を退けたあと御家人の困窮が深まり、1333年に滅んだ。
本文と出典
この時代のあらまし
平氏が滅んだ1185年、源頼朝は朝廷から全国に守護・地頭を置くことを認められた(文治の勅許)。守護は国ごとの軍事・警察の責任者、地頭は荘園などに置かれて年貢の取り立てや土地の管理にあたる役である。1192年、頼朝は征夷大将軍に任じられた。
頼朝の死後、実権は妻の北条政子の実家、北条氏に移る。北条時政・義時が力を握り、将軍を補佐する「執権」の地位が政治の中心になった。1221年、後鳥羽上皇が北条義時を討てと命じて挙兵したが、幕府軍が京を押さえて勝った(承久の乱)。幕府は京都に六波羅探題を置いて朝廷を見張り、上皇方から取り上げた三千余りの所領に東国の御家人を地頭として送り込んだ。
義時の子・北条泰時は、有力な御家人による合議の場(評定衆)を設け、1232年に御成敗式目を定めた。武士の世界のための、初めてのまとまった法である。
13世紀後半、ユーラシアを覆ったモンゴル帝国の元が、二度にわたって日本に攻め寄せた(元寇)。幕府はこれを退けたが、戦いで新しい土地を得たわけではなく、御家人の負担は重くなった。1297年には困窮する御家人を救うための徳政令が出されるが、社会の動揺は収まらなかった。
1333年、後醍醐天皇の挙兵に足利尊氏が呼応して六波羅探題を落とし、新田義貞が鎌倉を攻めた。北条高時らは東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅んだ。
主なできごと
・1185年(文治元年) 守護・地頭の設置が認められる(文治の勅許)
・1192年 源頼朝、征夷大将軍となる
・1206年 モンゴルでチンギス・カンが即位
・1221年(承久3年) 承久の乱。後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐(のち阿波)へ配流。六波羅探題を置く
・1232年(貞永元年) 御成敗式目51か条
・1268年(文永5年) モンゴルの国書が大宰府に届く。北条時宗が執権となる
・1271年 クビライ(フビライ)が国号を「大元」とする
・1272年 九州の守りのため異国警固番役を置く
・1274年(文永11年) 文永の役
・1279年 南宋が滅ぶ
・1281年(弘安4年) 弘安の役
・1297年(永仁5年) 永仁の徳政令。翌年、一部を改める
・1333年(元弘3年) 鎌倉幕府が滅ぶ
文字の記録から分かること
承久の乱のとき、北条政子が御家人に、頼朝以来の恩に報いて幕府を守るよう訴えた話は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』に載る。ただし『吾妻鏡』では、政子の言葉を安達景盛が代わりに読み上げたことになっている。
御成敗式目のねらいは、泰時が六波羅探題の弟・北条重時に送った手紙に書かれている。朝廷の法は漢文で難しいので、武士に分かる法をつくった、という趣旨である。中身は、頼朝以来の先例と、武士の社会で通っていた「道理」をもとに、土地の争いや守護・地頭の権限を定めたものだった。女性が所領を相続したり、養子をとったりすることについての条文もある。
元寇の様子を伝える絵巻に『蒙古襲来絵詞』がある。合戦に加わった御家人・竹崎季長が、のちに描かせたものである。戦った本人の側から作られた記録である点は、読むときに頭に入れておきたい。
文永の役で元軍が引き揚げた理由について、「神風が吹いた」という話の出どころは、八幡神の霊験を説く『八幡愚童訓』である。夜に神の軍勢が現れ、元の船が大風に吹き流されたと書くが、この記述の信頼性はきわめて低いとされる。
世界では
この時代の東アジアを動かしたのはモンゴル帝国である。1206年にチンギス・カンが即位し、モンゴル軍は1241年にはポーランドでヨーロッパの連合軍を破り、1258年にはイスラム世界の中心バグダードのアッバース朝を滅ぼした。クビライは1271年に国号を大元とし、南宋の都を1276年に降した。
朝鮮半島の高麗は、1231年からモンゴルの侵攻を受け、都を江華島に移して約30年抵抗したが、1259年に降った。抵抗を続けた三別抄も1273年に鎮められた。文永・弘安の役では、高麗が兵糧と軍船の用意を負わされ、高麗の兵も加わった。弘安の役の江南軍は、滅んだ南宋の兵を主力とする部隊だった。日本を攻めた軍は、モンゴルに従わされた人々の軍でもあった。
1268年に大宰府に届いたモンゴルの国書は、末尾に武力をほのめかす言葉があり、高圧的とする見方がある。幕府は朝廷に国書を回し、朝廷では連日話し合いが続いた。
弘安の役では、博多湾岸に約20kmの石築地(いまの元寇防塁)が築かれ、元の東路軍はそこからの上陸をあきらめた。そして7月30日の夜半に台風が来て、元の軍船の多くが沈んだ。
宗教の面でも中国とのつながりは深い。臨済宗を伝えた栄西は1168年と1187年に宋へ渡り、曹洞宗の道元は1223年に宋へ渡って約5年禅を学んだ。ヨーロッパでは十字軍が続き、1204年には第4回十字軍がキリスト教国である東ローマ帝国の都コンスタンティノープルを攻め落としている。
評価の分かれる点
・鎌倉幕府がいつ成立したかは、1180年、1183年、1185年、1190年、1192年などの説があり、定まっていない。1185年の文治の勅許を成立とみる説も有力である。
・文永の役で元軍が引き揚げた理由は、「暴風雨で壊滅した」という説明が広く教えられてきた。しかし『高麗史』は、損害と疲れ、指揮官の劉復亨が矢で傷ついたことから引き揚げを決めたと読める記述を残し、嵐は引き揚げの途中のことだったとされる。旧暦10月20日は新暦では11月にあたり、台風の時期ではない。同じ時代の日本側の記録にも嵐の話が出てこないものがある。弘安の役の台風は記録が多い。
・永仁の徳政令は、「御家人が売った土地を無償で取り戻させた法令」と説明されてきた。いまは、御家人の土地の売買・質入れを禁じることが主なねらいで、取り戻しはその前提として付いたものと考えられている。
・「鎌倉新仏教」という見方については、黒田俊雄の顕密体制論(1975年)が、当時の主流はむしろ天台・真言など密教を取り込んだ旧来の仏教だったと批判した。法然・親鸞・日蓮・道元はその主流に対する「異端」、栄西・一遍は「改革派」と位置づけられる。
くらさんの考察
鎌倉幕府は、最初から朝廷に取って代わる政権ではなかったと考えられる。頼朝が求めたのは守護・地頭を置く権利や征夷大将軍の地位であり、どれも朝廷から与えられる形をとった。朝廷と幕府が並ぶ二本立ての政治が崩れたのは、承久の乱で上皇が負け、三人の上皇が流されたときである。
御成敗式目の新しさは、武士自身が「道理」を文字にした点にある。漢文の律令が読めない武士でも、自分たちの土地争いのルールを確かめられるようになった。
元寇は、幕府にとって勝っても得るもののない戦いだった。守るための戦いでは敵の土地が手に入らず、恩賞が足りない。分割相続で御家人の土地は細かくなり、銭を使う経済が広がって借金も増えた。永仁の徳政令が土地の売買そのものを止めようとしたのは、御家人という幕府の土台を守るための苦しい手だったと考えられる。
ジージへの問いかけ
・頼朝はなぜ京ではなく鎌倉に本拠を置いたのだろう。
・「神風が吹いて勝った」という話は、どの時代に、なぜ広まったのだろう。
・日本を攻めた元の軍には、高麗や南宋の兵が多くいた。その人たちにとって元寇はどんな戦いだったのだろう。
出典
・ウィキペディア「鎌倉幕府」 https://ja.wikipedia.org/wiki/鎌倉幕府
・ウィキペディア「承久の乱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/承久の乱
・ウィキペディア「御成敗式目」 https://ja.wikipedia.org/wiki/御成敗式目
・ウィキペディア「元寇」 https://ja.wikipedia.org/wiki/元寇
・ウィキペディア「文永の役」 https://ja.wikipedia.org/wiki/文永の役
・ウィキペディア「弘安の役」 https://ja.wikipedia.org/wiki/弘安の役
・ウィキペディア「永仁の徳政令」 https://ja.wikipedia.org/wiki/永仁の徳政令
・ウィキペディア「鎌倉仏教」 https://ja.wikipedia.org/wiki/鎌倉仏教
・ウィキペディア「モンゴル帝国」 https://ja.wikipedia.org/wiki/モンゴル帝国
・ウィキペディア「高麗」 https://ja.wikipedia.org/wiki/高麗
・ウィキペディア「十字軍」 https://ja.wikipedia.org/wiki/十字軍
動画
・【社会】 歴史-21 鎌倉時代① ・ 基本編(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=BwWWAhsbJg0
・【鎌倉時代】73 忙しい人のための鎌倉時代【日本史】(YouTube高校 / 日本史・世界史)https://www.youtube.com/watch?v=J2_9yQ0Lfno
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