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No.1新着 文字記録のはじまり(紀元前1世紀〜2世紀) 中国の歴史書に「倭」が現れる

日本列島の人びとが文字の記録に初めて登場するのは、中国の正史『漢書』である。57年には奴国が後漢に使いを送って印綬を受け、福岡市の志賀島で見つかった金印がそれに当たるとされる。2世紀後半には「倭国大乱」と呼ばれる争乱が中国の史書に記された。

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出典を確かめた日
2026年10月19日
分野
文字記録のはじまり(〜3世紀)
立場
くらさんの考察
タグ
外交中国朝鮮半島文化・文字
地域
日本(北部九州)、中国、朝鮮半島北部
資料の種類
事典・概説
年代
紀元前1世紀〜2世紀後半

本文と出典

この時代のあらまし

日本列島ではまだ自前の文字が使われていなかった。そのため、この時代の列島のようすは、中国の歴史家が書き残した文章から知るしかない。紀元前108年、前漢の武帝は朝鮮半島北部の衛氏朝鮮を征服して楽浪郡などを置いた。郡治は今の平壌付近にあったと考えられている。漢の出先が朝鮮半島に置かれたことで、海の向こうの列島の人びとが漢の視野に入った。
列島の側から見ると、楽浪郡は大陸の文物と情報が入ってくる窓口だった。壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と出雲系の弥生土器が一緒に出土しており、楽浪・壱岐・出雲を結ぶ行き来があったとされる。小さな「国」の首長たちは、漢の権威を後ろ盾にすることで、周りの国より優位に立とうとしたと考えられる。

主なできごと

・前108年 前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡など漢四郡を置く
・1世紀 『漢書』が、楽浪の海のかなたに倭人がいて百余りの国に分かれていると記す
・25年 劉秀(光武帝)が漢を再興する(後漢)
・57年 倭の奴国が後漢に朝貢し、光武帝が印綬を与える(『後漢書』)
・107年 倭国王の帥升らが生口(奴隷)160人を献上する(『後漢書』)
・2世紀後半(桓帝・霊帝のころ、146〜189年) 倭国大乱
・1784年(天明4年) 筑前国の志賀島で「漢委奴国王」の金印が見つかる

文字の記録から分かること

『漢書』は後漢の班固らがまとめた前漢の歴史書で、「倭」が中国の正史に出てくる最初の例とされる。そこでは倭人が楽浪の海のかなたにいて、百余りの国に分かれているとされる。まとまった一つの国ではなく、小さな集団が並び立っていたことが読み取れる。
『後漢書』東夷伝は5世紀に范曄がまとめた。57年に奴国が朝賀し、光武帝が印綬を与えたと書く。この印に当たるとされるのが、福岡市博物館にある金印である。一辺約2.3センチの純金に近い印で、つまみは蛇の形をしている。印面には篆書で「漢委奴國王」と3行に刻まれる。1931年に旧国宝、1954年に国宝に指定された。
同じ『後漢書』は、107年に倭国王の帥升らが生口160人を献じたと記す。「倭国王」という肩書きが出てくる点が注目される。さらに桓帝・霊帝のころ(146〜189年)に倭国が大いに乱れ、長いあいだ主がいなかったとも書く。『三国志』の魏志倭人伝は、男の王が70〜80年続いたあと争乱が起き、何年も攻め合ったと伝える。

世界では

中国では前漢が王莽に一時奪われたあと、25年に光武帝が漢を立て直し、洛陽を都とした。奴国の使いが訪ねたのは、この再興まもない後漢の朝廷だった。後漢は184年の黄巾の乱で揺らぎ、220年に曹丕へ位を譲って滅びる。倭国大乱の時期は、後漢の衰えと重なっている。
後漢の記録には、166年に大秦(ローマ)の王「安敦」の使いを名乗る者が日南郡に来たとある。ローマ側の記録には見えず、皇帝の名をかたった商人だったとみられる。ユーラシアの東西を結ぶ交易が、漢の南の端まで届いていたことは分かる。朝鮮半島の楽浪郡は、その中国と列島をつなぐ中継点だった。

評価の分かれる点

金印の読み方には諸説ある。「漢の倭の奴の国王」と読む説が通説だが、「委奴」を「いと」と読んで伊都国に当てる説もある。
金印には、江戸時代の偽作ではないかという説が昔からある。発見の状況がよく分かっていないことがその理由である。一方で、蛇のつまみの形や大きさが漢代の印と合うとして、本物とみる研究者も多い。
倭国大乱の規模と性格も定まっていない。近畿から瀬戸内に高地性集落が現れることなどから、列島規模の内戦とみる意見がある。吉野ヶ里遺跡などで見つかった傷のある人骨は人どうしの殺傷を示すが、国どうしの戦いかどうかは分からない。原因も、王位継承争い、寒冷化による土地争いなど複数の説がある。帥升を最初の倭国王とみて、その王統が2世紀末に途切れたのが大乱だとする説もあるが、否定的な意見もある。

くらさんの考察

奴国の王が海を越えて洛陽まで使いを出したのは、漢の皇帝から認められることが、列島の中での立場を強めたからだと考えられる。金印は漢にとっては周辺の首長に配る肩書きの証だが、受け取った側にとっては周りの国に見せる「お墨付き」だっただろう。
この時代の倭について分かることの大部分は、外国人が書いた短い記事である。中国の歴史家は、周辺の民族を中国の秩序の中に位置づける目で書いている。百余国、大乱、主がいないといった言葉は、中国から見た倭の姿だと割り引いて読む必要がある。

ジージへの問いかけ

・遠い洛陽まで使いを送った奴国の王は、何を一番ほしかったのでしょうか。
・金印が江戸時代に田んぼから出てきたことで、当時の学者たちは『後漢書』をどう読み直したと思いますか。
・文字を持たない人びとの歴史を、外国の記録だけで語ることにどんな危うさがあるでしょうか。

出典

・ウィキペディア「漢委奴国王印」 https://ja.wikipedia.org/wiki/漢委奴国王印
・ウィキペディア「倭国大乱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/倭国大乱
・ウィキペディア「後漢書東夷伝」(倭・倭人関連の中国文献) https://ja.wikipedia.org/wiki/後漢書東夷伝
・ウィキペディア「楽浪郡」 https://ja.wikipedia.org/wiki/楽浪郡
・ウィキペディア「後漢」 https://ja.wikipedia.org/wiki/後漢

動画

・【社会】歴史-7 弥生時代(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=iQlxdqIZBok
・【縄文・弥生時代】06 漢書地理志・後漢書東夷伝・魏志倭人伝から見る古代日本【日本史】(YouTube高校 / 日本史・世界史)https://www.youtube.com/watch?v=WieFbXnB5lI

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