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No.11新着 戦国時代(1467〜1568) 下の者が上を倒し、海の向こうから鉄砲と宣教師が来た

応仁の乱(1467年)から織田信長の上洛(1568年)までのおよそ100年、将軍の力が弱まり、各地で戦国大名が自分の領国を治めるようになった。同じころポルトガル人が種子島に鉄砲を伝え、ザビエルがキリスト教を伝えた。日本の銀は石見銀山などから大量に海外へ流れ、日本は初めてヨーロッパと直接つながった。

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出典を確かめた日
2026年10月19日
分野
戦国・安土桃山(16世紀)
立場
くらさんの考察
タグ
政治戦争・争い武士宗教経済・暮らし中国朝鮮半島ヨーロッパ
地域
日本(全国)、中国、朝鮮半島、ヨーロッパ
資料の種類
事典・概説
年代
1467〜1568年

本文と出典

この時代のあらまし

戦国時代は、一般に応仁の乱(1467〜1477年)から織田信長が京都に入った1568年までを指す。ただし始まりと終わりには説がいくつもある。畿内では1493年の明応の政変、関東では1455年の享徳の乱を始まりとする見方があり、終わりも1568年のほかに室町幕府が滅んだ1573年とする見方がある。関東や東北では、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐・奥州仕置までを戦国とみることもある。地域によって「戦国」の長さが違うのである。
この時代の特徴は、身分が下の者が上の者を倒して力を握る「下剋上」である。北条早雲は今川氏の食客から身を起こし、伊豆と相模を奪って大名になった。斎藤道三は美濃守護土岐氏の家臣の家を次々に継いで出世し、主家を奪った。中央でも、将軍は細川氏に、細川氏は三好氏に、三好氏は松永氏に実権を奪われた。
こうして生まれた戦国大名は、守護大名・守護代・国人の出身がほとんどで、自分の領国を一元的に治めた。そのための決まりが分国法で、今川氏の「今川仮名目録」(1526年)、武田氏の「甲州法度之次第」、伊達氏の「塵芥集」などが知られる。幕府の法に頼らず、大名が自分の家臣と領民のために法をつくった点に、この時代の分権ぶりが表れている。

主なできごと

・1467年(応仁元年) 応仁の乱が始まる(〜1477年)
・1491年・1495年 北条早雲が堀越公方、相模の大森氏を滅ぼす
・1493年(明応2年) 明応の政変
・1510年 朝鮮の三浦(さんぽ)で日本人居留民が蜂起(三浦の乱)
・1526年(大永6年) 今川氏が「今川仮名目録」を定める
・1533年(天文2年) 石見銀山で灰吹法による銀の精錬が始まったとされる
・1543年(天文12年) ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝える(1542年説もある)
・1549年(天文18年)8月15日 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に着く
・1551年 ザビエルが京都に入るが将軍・天皇に会えず、山口・豊後府内で布教
・1568年(永禄11年) 織田信長が足利義昭を奉じて京都に入る

文字の記録から分かること

鉄砲伝来の年は、南浦文之の『鉄炮記』による。天文12年8月25日(1543年)に種子島の西村の小浦に船が流れ着き、島主の種子島時堯がその船を居城のある赤尾木へ曳かせたとある。『鉄炮記』はポルトガル人の名を「牟良叔舎(フランシスコ)」「喜利志多佗孟太(クリスタ・ダ・モータ)」と漢字で書いている。一方、ポルトガル側のアントーニオ・ガルヴァン『新旧世界発見記』は1542年に日本へ漂着したと書くため、1542年説も残る。
ザビエルについては、イエズス会の記録や書簡が詳しい。1547年にマラッカで鹿児島出身のヤジロウと出会い、日本行きを勧められた。1549年8月15日に鹿児島に着き、平戸・山口・京都・豊後府内をめぐった。京都では献上品がないため天皇や将軍への拝謁を断られ、山口で大内義隆に献上品を贈ってようやく布教の許しを得た。日本にいたのはおよそ2年3か月で、1552年に中国の上川島で亡くなっている。
石見銀山(島根県)は、博多の商人神屋寿禎が1520年代に本格的に開発し、1533年に灰吹法という精錬法が入ったと伝えられる。当時の日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定され、石見の名はヨーロッパの地図にも載った。2007年に世界遺産に登録されている。

世界では

ヨーロッパは大航海時代のさなかにあった。1494年のトルデシリャス条約でポルトガルとスペインは世界を分け合い、ポルトガルは東回りでアジアへ進み、1557年にはマカオを拠点とした。スペインは西回りで太平洋を渡り、1571年にフィリピンを支配下に置いた。種子島に来たポルトガル人は、この東回りの流れの先端にいたことになる。
同じころヨーロッパでは宗教改革が起きていた。1517年にルターが「95か条の論題」を掲げ、カトリック教会は立て直しを迫られた。その中で1534年にイエズス会がつくられ、ザビエルもその創立メンバーの一人だった。プロテスタントに押されたカトリックが、海外布教に力を注いだ先に日本があった。
中国の明は、民間の海上貿易を禁じる海禁をとっていた。これに反発した中国の密貿易商人たちが「倭寇」(後期倭寇)として活動し、『明史』は本物の日本人は10人に3人と書く。頭目の一人王直は五島・平戸を拠点にし、種子島への鉄砲伝来にも関わったとされる。朝鮮との貿易は対馬の宗氏が担ったが、1510年の三浦の乱で一度断絶し、のちの約条で入港地は釜山浦一つに絞られた。

評価の分かれる点

戦国時代の始まりと終わりは、上に書いたとおり地域と研究者によって違う。鉄砲伝来の年も、日本側史料の1543年と、ポルトガル側史料の1542年で食い違う。日本の銀が世界の産出量に占めた割合も「約3分の1とも推定される」という幅のある言い方にとどまる。

くらさんの考察

鉄砲・キリスト教・銀の三つは、ばらばらの出来事ではなく一本の線でつながっていると考えられる。ヨーロッパ人がアジアに来たのは香辛料や絹のためで、その代金として日本の銀が欲しかった。中国の海禁のすき間で動く密貿易船に乗ってポルトガル人が種子島に着き、その貿易の船に宣教師も乗ってきた。大名が南蛮貿易を歓迎したのは、鉄砲と火薬、そして利益を求めたからだと考えられる。戦国の争いが、海の外の動きと結びついていた点は見落とされやすい。

ジージへの問いかけ

・ザビエルは京都で天皇にも将軍にも会えなかった。この時代、いちばん頼れる「日本の王」は誰だったのか。
・分国法をつくった大名は、なぜ室町幕府の法では足りなかったのか。
・もし石見銀山がなかったら、ポルトガル人はここまで日本に来ただろうか。

出典

・ウィキペディア「戦国時代 (日本)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/戦国時代_(日本)
・ウィキペディア「鉄砲伝来」 https://ja.wikipedia.org/wiki/鉄砲伝来
・ウィキペディア「フランシスコ・ザビエル」 https://ja.wikipedia.org/wiki/フランシスコ・ザビエル
・ウィキペディア「石見銀山」 https://ja.wikipedia.org/wiki/石見銀山
・ウィキペディア「大航海時代」 https://ja.wikipedia.org/wiki/大航海時代
・ウィキペディア「宗教改革」 https://ja.wikipedia.org/wiki/宗教改革
・ウィキペディア「倭寇」 https://ja.wikipedia.org/wiki/倭寇
・ウィキペディア「三浦の乱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/三浦の乱
・コトバンク「下剋上」 https://kotobank.jp/word/下剋上
・コトバンク「分国法」 https://kotobank.jp/word/分国法

動画

・【社会】 歴史-30 室町時代⑤ ・ 戦国の始まり編(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=rXsU8DsB-gc
・【室町時代】131 忙しい人のための応仁の乱【日本史】(YouTube高校 / 日本史・世界史)https://www.youtube.com/watch?v=0iz-Nih79jc

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