No.12新着 安土桃山時代(1568〜1600) 信長と秀吉が天下をまとめ、海を越えて朝鮮へ攻め込んだ
1568年に織田信長が京都に入ってから、1600年の関ヶ原の戦いまでの約30年。信長は本能寺の変で倒れ、豊臣秀吉が1590年に全国統一をなしとげた。太閤検地と刀狩で、近世の村と身分の土台がつくられた一方、朝鮮への出兵は朝鮮・明・日本に大きな傷を残した。
本文と出典
この時代のあらまし
安土桃山時代は、織田信長と豊臣秀吉が政権を握った時期を指す。名前は信長の安土城と、秀吉が晩年に築いた伏見城のあった桃山丘陵からとられた。「安土桃山時代」という呼び方は、桑田熊蔵が1913年の教科書『日本史教本』で使ったのが早い例とされる。始まりは1568年(信長上洛)、1573年(足利義昭追放)、1576年(安土城の築城開始)の説があり、終わりも1598年(秀吉の死)、1600年(関ヶ原)、1603年(家康の将軍就任)と分かれる。
信長は1568年に足利義昭を将軍に立てて京都に入り、1573年にはその義昭を追放して室町幕府を事実上終わらせた。1575年の長篠の戦いで武田勝頼を破り、1576年から安土城を築いた。しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、家臣の明智光秀に京都の本能寺を襲われ、自害した。遺体は見つかっていない。
光秀を11日後の山崎の戦いで破った羽柴秀吉が、信長の後継者の座をつかんだ。秀吉は1585年に関白となり、1590年の小田原征伐で北条氏を滅ぼして全国統一を果たした。統一の中で進めたのが太閤検地と刀狩である。
主なできごと
・1568年(永禄11年) 織田信長が足利義昭を奉じて京都に入る
・1573年(元亀4年) 信長が義昭を追放、室町幕府が事実上滅ぶ
・1575年(天正3年) 長篠の戦い
・1576年(天正4年) 安土城の築城が始まる
・1582年(天正10年)6月2日 本能寺の変。6月13日、山崎の戦いで秀吉が光秀を破る
・1582年 秀吉が検地を始める(太閤検地)
・1585年(天正13年) 秀吉が関白になる
・1588年(天正16年)7月8日 刀狩令
・1590年(天正18年) 小田原征伐、全国統一
・1592年(天正20年)4月13日 日本軍が釜山に上陸(文禄の役)
・1597年(慶長2年) 講和交渉が破れ、再び出兵(慶長の役)
・1598年(慶長3年) 秀吉の死により日本軍が引き揚げる
・1600年(慶長5年)9月15日(10月21日) 関ヶ原の戦い
文字の記録から分かること
本能寺の変で信長がどう死んだかは、『信長公記』が基本の史料で、殿中で切腹したとする。光秀がなぜ謀反を起こしたかは、史料が乏しく定説がない。恨みによるという話(怨恨説)の多くは江戸時代以降の二次・三次史料に頼っており、信頼性に問題があるとされる。ほかに天下を狙ったとする野望説、長宗我部元親をめぐる四国政策の変更が光秀の立場を悪くしたとする四国説、背後に別の人物がいたとする黒幕説がある。
太閤検地は1582年から始まり、田畑の広さと収穫の見込みを「石高」で表した。京枡を基準の枡とし、一つの土地に耕作者を一人決めて(一地一作人)年貢の責任者をはっきりさせた。これで中世の荘園の仕組みは終わったとされる。
刀狩令は1588年に出された。集めた刀は建造中の方広寺大仏の釘や鎹にすると説明し、『多聞院日記』には一揆を防ぐことが本当の目的だと書かれている。ただし藤木久志らの研究では、村に任せて1人1腰を出させる例が多く、武器を使う権利を封じるのが主眼で、完全な武装解除ではなかったとされる。江戸時代の村にも大量の刀が残っていた。
世界では
秀吉の朝鮮出兵は、朝鮮では「壬辰倭乱」「丁酉倭乱(丁酉再乱)」と呼ばれ、日韓中の共同研究では「壬辰戦争」の名も使われる。明は戦火が遼東に及ぶのを防ぐため援軍を出し、文禄の役では李如松が約4万8千人を率いた。朝鮮水軍の李舜臣は鳴梁・露梁の海戦で知られる。講和は成らず、双方が勝ったと主張したまま終わった。この戦争は明と朝鮮に深い財政難を残し、両国が衰える原因の一つになったとされる。
ヨーロッパでは、スペインが1571年にフィリピンを支配し、ポルトガルはマカオを拠点に日本との南蛮貿易を続けていた。カトリック教会はトリエント公会議(1545〜1563年)で立て直しを図り、イエズス会の宣教師が日本で活動していた。狩野永徳の金碧の屏風や千利休のわび茶に代表される桃山文化は、この海外との往来で富んだ大名や豪商が支えた。
評価の分かれる点
光秀の動機には定説がない。秀吉が朝鮮に出兵した理由も、領土拡張説、勘合貿易の復活を求めた説、国内の不満を外へ向けた説、東アジアの新しい秩序をつくろうとした説など多くあり、確かな説はない。太閤検地の「石高」についても、収穫量を表したという通説に対し、見込まれる年貢の量だったとみる指摘がある。
くらさんの考察
太閤検地と刀狩は、田を耕す者と戦う者をはっきり分けた点で一組の政策だと考えられる。年貢を出す者を土地に一人ずつ結びつけ、その者からは刀を使う権利を取り上げた。こうして「百姓は村で年貢を納め、武士は城下で戦に備える」という江戸時代の形の下地ができた。朝鮮出兵については、国内統一で行き場を失った大名の軍事力を外に向けた面があったと考えられるが、それだけで説明できるかは史料からは決めきれない。
ジージへの問いかけ
・信長が本能寺で倒れなかったら、秀吉や家康の出番はあっただろうか。
・刀狩のあとも村に刀が残っていたなら、刀狩は何を変えたのだろう。
・朝鮮出兵は、日本・朝鮮・明のそれぞれにとって何だったのか。
出典
・ウィキペディア「安土桃山時代」 https://ja.wikipedia.org/wiki/安土桃山時代
・ウィキペディア「本能寺の変」 https://ja.wikipedia.org/wiki/本能寺の変
・ウィキペディア「太閤検地」 https://ja.wikipedia.org/wiki/太閤検地
・ウィキペディア「刀狩」 https://ja.wikipedia.org/wiki/刀狩
・ウィキペディア「文禄・慶長の役」 https://ja.wikipedia.org/wiki/文禄・慶長の役
・ウィキペディア「関ヶ原の戦い」 https://ja.wikipedia.org/wiki/関ヶ原の戦い
・ウィキペディア「宗教改革」 https://ja.wikipedia.org/wiki/宗教改革
・ウィキペディア「大航海時代」 https://ja.wikipedia.org/wiki/大航海時代
動画
・【社会】 歴史-36 安土桃山時代① ・ 統一編(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=M7mdE8uZau8
・【安土桃山時代】155 忙しい人のための安土桃山時代【日本史】(YouTube高校 / 日本史・世界史)https://www.youtube.com/watch?v=Xn2qI0LFJp4
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