歴史しらべ日本史を考えるくらさん

言葉を空白で区切ると、そのどちらも含むものだけが出ます(例:卑弥呼 魏)。
1語だけでも探せます(例:鎖国)。

← 文字記録のはじまり(〜3世紀)一覧へ戻る

No.2新着 邪馬台国と卑弥呼(3世紀) 魏の歴史書が描いた、女王の国

2世紀末の争乱のあと、倭の国々は卑弥呼を女王に立てた。卑弥呼は帯方郡を通じて魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号と銅鏡百枚などを受けた。邪馬台国の場所は畿内説と九州説に分かれ、いまも決着していない。

𝕏 でポストする

出典を確かめた日
2026年10月19日
分野
文字記録のはじまり(〜3世紀)
立場
くらさんの考察
タグ
外交中国朝鮮半島人物宗教
地域
日本(九州・近畿)、中国、朝鮮半島
資料の種類
事典・概説
年代
238〜266年

本文と出典

この時代のあらまし

2世紀後半の倭国大乱のあと、倭の国々は一人の女性、卑弥呼を王に共立した。魏志倭人伝によれば、卑弥呼は鬼道を使って人びとを従えた。争いを続けてきた国々が、武力で勝ち残った王ではなく、まじないの力をもつ女王の下でまとまった点に、この時代の特徴がある。
卑弥呼は朝鮮半島の帯方郡を通じて、中国の魏と結んだ。南で対立する狗奴国との争いでも、魏の後ろ盾を頼った。卑弥呼の死後には男王が立ったが国は治まらず、一族の少女である台与(13歳)が王になって落ち着いた。倭の政治はこの時代も、中国との関係に大きく左右されていた。

主なできごと

・3世紀初め 遼東の公孫氏が楽浪郡の南を分けて帯方郡を置く
・220年 後漢が滅び、魏が成立する
・238年 魏の司馬懿が遼東の公孫淵を滅ぼす
・238年(景初2年)6月 卑弥呼が大夫の難升米らを帯方郡へ送る(『日本書紀』が引く『魏志』や『梁書』は景初3年=239年とする)
・同年12月 魏が卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬・銅鏡100枚などを与える
・240年 魏の使いが倭に着く
・247年 狗奴国との争いを帯方郡に報告し、郡から張政らが派遣される
・247〜248年ごろ 卑弥呼が死ぬ。男王が立つが乱れ、台与が王となる
・266年 倭人が晋に朝貢する(『晋書』。台与の使いとみる説がある)

文字の記録から分かること

魏志倭人伝は、陳寿が3世紀末にまとめた『三国志』魏書の東夷伝のうち「倭人」の条の通称である。中国の正史で日本列島について初めてまとまった記述を載せたもので、范曄の『後漢書』よりおよそ150年早く成立した。
この史料には、帯方郡から邪馬台国までの道のり、途中の国々の名前、役人の名、風俗、産物などが書かれている。卑弥呼が死ぬと大きな塚が造られ、百余人が殉葬されたとも書く。
魏との行き来の記事は具体的である。景初2年の遣使、親魏倭王の称号、金印紫綬、銅鏡100枚が書かれ、のちの狗奴国との争いでは、魏の役人の張政が倭に渡っている。ただし陳寿は倭を自分で訪ねていない。道のりの方角や距離には食い違いが多いという指摘があり、魏の国内政治や外交の事情が記述に影響したとする研究もある。

世界では

中国は三国時代だった。220年に曹丕が後漢から位を譲られて魏を建て、221年に劉備が蜀を、229年に孫権が呉を建てた。倭の使いが魏に来たのは、魏が238年に遼東の公孫氏を滅ぼした直後である。それまで公孫氏が遼東から朝鮮半島北部を押さえていたため、倭と中国の間の行き来が途絶えていた可能性が指摘されている。公孫氏が滅びて帯方郡が魏の手に入ると、卑弥呼はすぐに使いを出した。
その後、263年に蜀が滅び、265年に司馬炎が魏から位を譲られて晋(西晋)を建てた。266年の倭人の朝貢は、晋が建った翌年にあたる。280年に晋は呉を滅ぼして中国を統一した。266年の朝貢を最後に、413年まで中国の史書から倭の記事が消える。日本の研究者はこの期間を「空白の4世紀」と呼ぶ。

評価の分かれる点

邪馬台国の場所は、大きく畿内説と九州説に分かれ、確定していない。畿内説は奈良盆地の纒向遺跡を有力候補とする。3世紀に大きくなった集落で、大型建物群や各地から運ばれた土器、初期の前方後円墳が見つかっている。近くの箸墓古墳の年代が卑弥呼の没年と合うかどうかが論点である。
九州説は、魏志倭人伝の道のりのうち「南」という方角を重く見る。北部九州に漢の鏡や鉄器、首長の墓が集まることも根拠とされる。ただし九州説の中でも場所の候補は筑紫平野、筑後、熊本周辺などに分かれ、のちのヤマト王権とどうつながるかの説明が課題とされる。
遣使の年も、景初2年(238年)と3年(239年)の二つの書き方がある。公孫氏の滅亡と重なる238年か、その翌年か。どちらを取るかで、卑弥呼の外交の機敏さの評価も変わる。

くらさんの考察

卑弥呼が親魏倭王の称号を得たことは、狗奴国との争いを有利にするためだったと考えられる。実際に争いが起きると、卑弥呼はまず帯方郡に報告し、魏から役人が派遣された。中国の権威を国内の争いに持ち込むやり方は、奴国の金印の時代から続いている。
邪馬台国の場所の論争が終わらないのは、文字の史料が魏志倭人伝のほぼ一つに限られるからである。考古学の年代測定が進めば絞り込める可能性はあるが、墓や遺跡から「邪馬台国」という文字が出ない限り、決定打にはなりにくいと考えられる。

ジージへの問いかけ

・争いの後に、武力の強い男王ではなく卑弥呼が選ばれたのはなぜだと思いますか。
・ジージは畿内説と九州説、どちらの話のほうが腑に落ちますか。その理由は。
・魏が遠い倭の女王に「親魏倭王」という特別な称号を与えたのは、魏の側にどんな得があったからでしょうか。

出典

・ウィキペディア「魏志倭人伝」 https://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝
・ウィキペディア「邪馬台国」 https://ja.wikipedia.org/wiki/邪馬台国
・ウィキペディア「倭国大乱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/倭国大乱
・ウィキペディア「三国時代 (中国)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/三国時代_(中国)
・ウィキペディア「楽浪郡」 https://ja.wikipedia.org/wiki/楽浪郡
・ウィキペディア「後漢書東夷伝」(倭・倭人関連の中国文献) https://ja.wikipedia.org/wiki/後漢書東夷伝

動画

・【社会】歴史-8 女王現る(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=42gBwS0j4YY

関連動画

この記事を読んで浮かんだ疑問は、運営者ジージが歴史QAでくらさんに質問し、答えをそこに載せていきます。