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No.3新着 倭の五王と古墳時代(4〜5世紀) 巨大古墳と、宋への使い

4世紀は中国の史書に倭の記事がない「空白の世紀」だが、高句麗の好太王碑が倭の朝鮮半島への出兵を伝える。5世紀には讃・珍・済・興・武の「倭の五王」が中国南朝の宋に使いを送り、称号を求めた。埼玉と熊本の古墳から出た刀剣の銘文には「ワカタケル大王」の名があり、大王の力が東西に及んでいたことが分かる。

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出典を確かめた日
2026年10月19日
分野
古墳・飛鳥(4〜7世紀)
立場
くらさんの考察
タグ
外交戦争・争い天皇・朝廷中国朝鮮半島文化・文字
地域
日本(近畿・関東・九州)、朝鮮半島、中国
資料の種類
事典・概説
年代
391〜502年

本文と出典

この時代のあらまし

3世紀の奈良盆地の纒向遺跡には初期の前方後円墳が見られ、やがて同じ形の墓が各地に造られるようになる。この形の墓が広い範囲に広がったことは、近畿の勢力を中心にした首長どうしのつながりができたことを示すと考えられている。この勢力がのちにヤマト王権と呼ばれる。
4世紀の倭は、朝鮮半島に深く関わった。鉄の資源や先進の技術を半島に頼っていたためと考えられる。半島では北の高句麗が南へ勢いを伸ばし、百済・新羅と争っていた。倭は百済と結び、高句麗と戦った。5世紀になると倭の王たちは中国の宋に使いを送り、半島での軍事的な立場を認めてもらおうとした。巨大な古墳が最も大きくなるのも、この5世紀である。

主なできごと

・266〜413年 中国の史書に倭の記事がない(「空白の4世紀」)
・391年(辛卯年) 倭が海を渡って百済・新羅を破ったと読める記事(好太王碑)
・400年 高句麗が5万の兵で新羅を救い、退く倭軍を任那・加羅まで追う(好太王碑)
・404年 倭が帯方の地に侵入し、高句麗軍に大敗する(好太王碑)
・414年 高句麗の長寿王が父・好太王の碑を建てる
・421年 倭王讃が宋に使いを送る
・438年 珍が「安東将軍倭国王」とされる
・443年・451年 済が安東将軍倭国王とされ、451年に六国諸軍事・安東大将軍に進む
・462年 興が安東将軍倭国王とされる
・471年(辛亥年) 稲荷山古墳の鉄剣が作られたとする説が有力
・478年 武が宋に上表し、「六国諸軍事安東大将軍倭王」とされる
・479年・502年 南斉・梁が倭王に官位を与えた記録(倭からの使いかは不明)

文字の記録から分かること

好太王碑(広開土王碑)は、中国吉林省集安市にある高さ約6.2メートルの石碑で、四面に1,700〜1,800字ほどの漢文が刻まれている。高句麗の好太王の功績をたたえ、414年に息子の長寿王が建てた。倭が百済や新羅を破った、倭と高句麗が戦ったという記事があり、4世紀末から5世紀初めの倭の動きを伝える数少ない文字資料である。
『宋書』倭国伝には、讃・珍・済・興・武の5人の倭王が宋に使いを送った記事がある。珍は倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓の六国の軍事を束ねる称号を名乗ったが、認められたのは「安東将軍倭国王」だけだった。倭王は百済への軍事支配権をくり返し求めたが、宋は認めなかった。478年の武の上表文には、高句麗が百済を圧迫し、朝貢の道をふさいでいると訴え、祖先が東は毛人55国、西は衆夷66国を従えたと述べるくだりがある。
日本の側の文字資料もこの時代に現れる。埼玉県行田市の稲荷山古墳から1968年に出土した鉄剣には、1978年のX線調査で金象嵌の115文字が見つかった。「辛亥年」の年紀と「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)の名、大王の宮「斯鬼宮」、大王に杖刀人の首として仕えた「乎獲居臣」(ヲワケ)の名が刻まれている。熊本県和水町の江田船山古墳から出た大刀にも75字の銘があり、「獲□□□鹵大王」に典曹人として仕えた无利弖(ムリテ)が出てくる。稲荷山の発見後、この大王も同じワカタケルと読む説が有力になった。
稲荷山古墳の鉄剣は1983年に国宝に指定され、さきたま史跡の博物館で展示されている。江田船山古墳の出土品は1965年に国宝となり、大部分を東京国立博物館が持つ。
大阪府堺市の大仙陵古墳は墳丘長約525メートル(宮内庁の2018年の測量による)で、日本最大の古墳である。埴輪や須恵器から5世紀前半〜中ごろの築造と考えられている。2019年、「百舌鳥・古市古墳群」の一部として世界文化遺産に登録された。

世界では

中国は南北に分かれていた。南では420年に劉裕が東晋から位を譲られて宋を建て、建康(今の南京)を都とした。北では北魏が力を伸ばし、宋は領土をくり返し奪われた。倭の五王の使いの大半はこの宋に向けたものである。宋は479年に南斉に代わられ、478年の武の使いが宋への最後となった。
朝鮮半島では、高句麗が313年に楽浪郡を滅ぼして南へ広がり、百済・新羅と争った。好太王碑が伝える倭と高句麗の戦いはこの流れの中にある。倭王武が上表文で高句麗を名指しで非難したのも、半島での対立が続いていたからである。
ヨーロッパではローマ帝国が395年に東西に分かれ、476年に西の皇帝がオドアケルに退位させられた。倭王武が宋に使いを送ったのとほぼ同じころである。ただし「西ローマの滅亡」という言い方は、行政や法の仕組みが続いたことから見直しも求められている。

評価の分かれる点

好太王碑の391年(辛卯年)の記事は、文字が欠けていて、主語が倭か高句麗かで日本と韓国の研究者の読みが分かれている。1970年代には、日本の陸軍軍人が碑文を改ざんしたという説が出された。その後、より古い拓本や1985年の現地調査で意図的な改ざんは認められないとされ、2006年には最古の拓本の検討から改ざん説は否定された。ただし辛卯年の記事の読み方そのものは、いまも議論が続いている。
倭の五王がどの天皇に当たるかも確定していない。武を雄略天皇とする説が有力で、稲荷山鉄剣のワカタケル大王や系譜の一致が根拠とされる。讃と珍には応神・仁徳・履中・反正などを当てる諸説がある。稲荷山鉄剣の辛亥年は471年とする説が多数だが、531年とする説もある。
大仙陵古墳は宮内庁が仁徳天皇陵としているが、本当の被葬者は分かっていない。宮内庁が発掘を認めていないため、学術的には確定できない。

くらさんの考察

倭王が宋に求めたのは、倭国の王という称号よりも、朝鮮半島の国々の軍事を束ねる将軍の称号だった。百済を含めた称号にこだわったのは、半島南部での利害がそれだけ大きかったからだと考えられる。
稲荷山と江田船山の刀剣は、関東と九州の豪族がワカタケル大王に仕えたことを誇りにしていたことを示す。大王の力が列島の東西に及んだと読める一方、地方の豪族が自分の家柄を飾るために大王とのつながりを刻んだとも読める。巨大古墳の時代は、文字が支配の道具として使われ始めた時代でもある。

ジージへの問いかけ

・倭の王たちは、なぜ自分の国の外、朝鮮半島の軍事の称号をそこまで欲しがったのでしょうか。
・埼玉の豪族が、遠い大和の大王に仕えたことを剣に刻んだのはなぜだと思いますか。
・大仙陵古墳を発掘して被葬者を確かめるべきか、陵墓として静かに守るべきか、ジージはどう考えますか。

出典

・ウィキペディア「広開土王碑」 https://ja.wikipedia.org/wiki/広開土王碑
・ウィキペディア「倭の五王」 https://ja.wikipedia.org/wiki/倭の五王
・ウィキペディア「稲荷山古墳出土鉄剣」 https://ja.wikipedia.org/wiki/稲荷山古墳出土鉄剣
・ウィキペディア「江田船山古墳」 https://ja.wikipedia.org/wiki/江田船山古墳
・ウィキペディア「大仙陵古墳」 https://ja.wikipedia.org/wiki/大仙陵古墳
・ウィキペディア「宋 (南朝)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/宋_(南朝)
・ウィキペディア「西ローマ帝国」 https://ja.wikipedia.org/wiki/西ローマ帝国
・埼玉県「国宝『金錯銘鉄剣』の実物を2年半ぶりに公開します」 https://www.pref.saitama.lg.jp/g2210/news/page/news2026020501.html

動画

・【社会】歴史-9 古墳時代① 日本編(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=HxlnDG4hHms
・【古墳時代】10 ヤマト政権と古墳【日本史】(YouTube高校 / 日本史・世界史)https://www.youtube.com/watch?v=tMmda8lAOAM

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