No.4新着 飛鳥時代前半(6世紀〜7世紀前半) 仏教と、隋に向けた「日出づる処」の国書
6世紀半ば、百済の聖明王から仏教が公式に伝えられ、受け入れをめぐって蘇我氏と物部氏が対立した。推古天皇のもとで蘇我馬子と厩戸王(聖徳太子)が政治を進め、冠位十二階や十七条憲法がつくられたと『日本書紀』は記す。607年には隋に使いを送り、「日出づる処の天子」で始まる国書が煬帝を不快にさせた。
本文と出典
この時代のあらまし
6世紀の倭では、大王を支える有力な豪族が力を競っていた。中でも渡来系の人びとと結びつきの強い蘇我氏が台頭した。百済から仏教が公式に伝わると、受け入れるかどうかが豪族どうしの争いと重なった。587年に蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし、蘇我氏の優位が決まった。
592年、馬子は対立した崇峻天皇を殺させた。翌593年、馬子の姪にあたる推古天皇が豊浦宮で即位した。日本史上最初の女帝とされる(神功皇后などを数える数え方もある)。推古朝では、天皇・馬子・厩戸王の三者が政治を担ったとみるのが一般的である。冠位十二階で家柄より能力で人を取り立てる仕組みを試み、隋に使いを送って大陸の制度と文化を直接学ぼうとした。
主なできごと
・538年(戊午年) 百済の聖明王が仏教を伝える(『上宮聖徳法王帝説』『元興寺伽藍縁起』の説)
・552年(欽明13年) 同じく仏教伝来(『日本書紀』の説)
・587年 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす(丁未の役)
・589年 隋が陳を滅ぼし、中国を統一する
・592年 崇峻天皇が殺される
・593年 推古天皇が即位。厩戸王が皇太子となる(『日本書紀』)
・600年 最初の遣隋使(『隋書』のみに記録)
・603年 冠位十二階を定める
・604年 十七条憲法を定める(『日本書紀』)
・607年 小野妹子を隋に送る。法隆寺の造営(金堂薬師如来像光背銘)
・608年 隋の裴世清が来日。小野妹子が再び隋へ。高向玄理・南淵請安・僧旻らが同行
・622年 厩戸王が亡くなる
・626年 蘇我馬子が亡くなる
・628年 推古天皇が小墾田宮で亡くなる
文字の記録から分かること
この時代の出来事の多くは、720年にできた『日本書紀』による。編纂は100年ほど後なので、書き換えや潤色があり得ることを前提に読む必要がある。仏教伝来について、『日本書紀』は欽明13年(552年)とするが、そこに引かれた経文は後の時代に訳されたものとされる。『上宮聖徳法王帝説』などは「戊午年」(538年)とする。こちらも後世の成立だが、現在は538年説が有力とされる。
『日本書紀』は、仏教の受け入れについて欽明天皇が群臣に意見を聞き、蘇我稲目が賛成し、物部尾輿と中臣鎌子が国の神の怒りを招くと反対したと書く。
十七条憲法は、『日本書紀』に推古12年(604年)、太子が自ら定めたとある。役人や豪族に向けた心得で、第1条「和を以て貴しと為す」は『論語』に典拠があるとされる。原本や古い写本は残っておらず、最も古い記録は『日本書紀』である。
中国側の記録である『隋書』倭国伝(「俀国」と書く)は、600年と607年の使いを記す。600年の使いは『日本書紀』に出てこない。607年の国書は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」で始まり、煬帝は不快に思って、蛮夷の書は今後見せるなと命じたという。煬帝が怒った理由は、方角の言葉よりも、周辺の首長が「天子」を名乗った点にあったとみられている。
世界では
中国では、楊堅(文帝)が581年に隋を建て、589年に南の陳を滅ぼして約300年ぶりに中国を統一した。文帝は律令を整え、科挙を始めた。倭が600年に最初の使いを送ったのは、統一から10年ほど後である。次の煬帝は大運河を延ばし、612年から高句麗に3度遠征したがいずれも成功しなかった。反乱が広がり、618年に隋は滅び、李淵が唐を建てた。
朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国が争っていた。百済の聖明王が倭に仏教を伝えたのは、高句麗や新羅に押されて倭の支援を求めていたためで、仏教は外交の手段でもあった。新羅でも6世紀前半、法興王のときに仏教が取り入れられた。仏教は東アジアの国々が共有する先進の文化であり、受け入れることは大陸の国際秩序に加わることを意味した。
評価の分かれる点
聖徳太子の実像は、学説が分かれている。「厩戸王」という呼び名も同時代の史料にはなく、1960年代の論文から広まった。「聖徳太子」という呼び名は751年の『懐風藻』が初出とされる。1999年に大山誠一は、太子の事績の大半は『日本書紀』編纂のときに作られたとする説を唱えた(人物がいなかったという主張ではない)。この説を支持する論文は近年少ないという指摘もある。推古朝の政治を「蘇我氏の政治の一部」とみるか、「太子が指導した」とみるかでも見方が分かれる。
十七条憲法にも、『日本書紀』編纂のころの作とする説がある。津田左右吉は、条文の「国司」などの言葉が推古朝の制度に合わないと論じた。一方、推古朝の政治方針と合うとして、後世の手直しはあっても基本は当時のものとみる研究者もいる。
「崇仏論争」という見方自体を見直す研究もある。物部氏も仏教と無縁ではなかったとし、実態は宮中の祭祀の扱いをめぐる対立や、蘇我・物部の勢力争いだったとする。
くらさんの考察
隋への国書で倭の王が「天子」を名乗ったのは、隋と対等の立場を示そうとしたからだと考えられる。5世紀の倭の五王が中国から将軍の称号をもらおうとしたのと比べると、姿勢がはっきり変わっている。ただ煬帝が怒ったあとも、翌608年に隋は裴世清を倭に送っている。高句麗と戦っていた隋にとって、その背後にある倭を敵に回したくない事情があったとみられる。
聖徳太子の話は、『日本書紀』が天皇中心の国づくりの理想を太子に託して描いた面がある。太子一人の功績として覚えるよりも、蘇我氏と推古天皇を含めた推古朝の政治として見るほうが、史料に沿っていると考えられる。
ジージへの問いかけ
・ジージが習った聖徳太子と、今の教科書の「厩戸王」とでは、受ける印象がどう違いますか。
・仏教を受け入れるかどうかは、信仰の問題だったのでしょうか、それとも政治の問題だったのでしょうか。
・隋を怒らせた国書は、計算ずくだったと思いますか、それとも世間知らずだったと思いますか。
出典
・ウィキペディア「仏教公伝」 https://ja.wikipedia.org/wiki/仏教公伝
・ウィキペディア「推古天皇」 https://ja.wikipedia.org/wiki/推古天皇
・ウィキペディア「聖徳太子」 https://ja.wikipedia.org/wiki/聖徳太子
・ウィキペディア「十七条憲法」 https://ja.wikipedia.org/wiki/十七条憲法
・ウィキペディア「遣隋使」 https://ja.wikipedia.org/wiki/遣隋使
・ウィキペディア「隋」 https://ja.wikipedia.org/wiki/隋
・ウィキペディア「新羅」 https://ja.wikipedia.org/wiki/新羅
動画
・【社会】 歴史-11 飛鳥時代① ・ 日本編(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=Y-my7RLgns4
・【飛鳥時代】16 推古天皇と厩戸皇子(聖徳太子)【日本史】(YouTube高校 / 日本史・世界史)https://www.youtube.com/watch?v=LNLb_u42cBU
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