No.5新着 大化の改新から律令国家へ(645〜701年) 敗戦と内乱をへて「日本」と「天皇」が生まれる
645年の乙巳の変で蘇我本宗家が滅び、大化の改新と呼ばれる改革が始まった。663年に白村江で唐・新羅に大敗し、672年の壬申の乱に勝った天武天皇が中央集権を進めた。藤原京への遷都をへて701年に大宝律令が完成し、このころ「天皇」の称号と「日本」の国号が定まったと考えられている。
本文と出典
この時代のあらまし
7世紀半ば、東アジアでは統一王朝の唐が強大になり、朝鮮半島の三国に圧力をかけていた。倭の中では蘇我氏が大きな力を持っていた。645年、中大兄皇子と中臣鎌足らは宮中で蘇我入鹿を殺し、父の蝦夷は自害した(乙巳の変)。その後に続いた一連の制度改革を「大化の改新」と呼ぶ。
改革を急がせたのは外からの危機だった。660年に百済が唐と新羅に滅ぼされ、倭は百済の復興を助けるために大軍を送ったが、663年の白村江の戦いで大敗した。倭は唐の攻撃に備えて九州に防衛線を築き、都を近江に移した。天智天皇の死後、672年に後継をめぐる壬申の乱が起き、勝った大海人皇子が天武天皇となった。天武と次の持統天皇の時代に、法と都と称号が整えられ、701年の大宝律令で律令国家の形ができあがった。
主なできごと
・645年6月 乙巳の変。蘇我入鹿が殺され、蝦夷が自害。皇極天皇が孝徳天皇に譲位。最初の元号「大化」
・645年12月 都を難波に移す(難波長柄豊碕宮)
・646年正月 改新の詔(『日本書紀』)
・660年 唐・新羅が百済を滅ぼす
・663年 白村江の戦いで倭・百済遺民の軍が唐・新羅の水軍に大敗
・663年以後 水城・朝鮮式山城を築き、北部九州に防人を置く
・667年 近江大津宮に遷都
・668年 唐・新羅が高句麗を滅ぼす
・671年12月(西暦672年1月) 天智天皇が亡くなる
・672年 壬申の乱。大海人皇子が勝ち、大友皇子は自決
・673年 大海人皇子が飛鳥浄御原宮で即位(天武天皇)
・676年 新羅が唐軍を退け、朝鮮半島の中部以南をほぼ統一
・681年 天武天皇が律令の編纂を命じる
・689年 飛鳥浄御原令を諸官司に配る
・694年 持統天皇が藤原京に遷都
・701年 大宝律令ができる。元号「大宝」
・702年 律の施行。遣唐使が唐で「日本国」を名乗る(『続日本紀』)
文字の記録から分かること
この時代の主な史料は『日本書紀』だが、出土した木簡が記述を確かめたり、くつがえしたりしている。改新の詔には、豪族の土地と民を公のものとする、戸籍を作る、新しい税を定めるなど4か条が書かれている。ところが1967年、藤原京跡で「己亥年(699年)」の木簡が見つかり、当時の地方の単位が「郡」ではなく「評」だったことが分かった。これで「郡評論争」に決着がつき、改新の詔の文章は『日本書紀』の編纂時に書き換えられたことがはっきりした。一方、1999年には難波宮跡で「戊申年(648年)」の木簡が見つかり、難波長柄豊碕宮があったことはほぼ確かになった。
「天皇」の文字の確かな古い例としては、奈良県の飛鳥池遺跡から出た木簡がある。一緒に出た木簡から天武朝のものと判断されている。それ以前、国内では王を「大王」と呼んでいた。5世紀の稲荷山古墳の鉄剣にも「大王」とある。
国号の「日本」について、『続日本紀』は、大宝2年(702年)の遣唐使が唐の使う「大倭国」の呼び名を退け、「日本国」を名乗ったと記す。『新唐書』にも、倭が「倭」の名をきらって「日本」と改めたという記事がある。
世界では
中国では618年に李淵が唐を建て、2代太宗の時代に政治が安定した。唐は隋の律令を受け継ぎ、律(刑法)と令(行政法)で国を治めた。668年には新羅と組んで高句麗を滅ぼした。690年には武則天が即位して国号を「周」とし、中国史上ただ一人の女帝となった。705年に退位し、唐が戻る。大宝律令ができたのは、この武周の時代である。
朝鮮半島では、唐と組んだ新羅が660年に百済、668年に高句麗を滅ぼした。しかし唐が半島全体を支配しようとすると、新羅は唐と戦い、676年に唐軍を破った。唐は678年に新羅への遠征をあきらめ、新羅が半島の中部以南をほぼ統一した。この唐と新羅の対立によって、倭は唐から攻められずにすんだとも考えられる。
評価の分かれる点
大化の改新がどこまで本当に行われたかは、長く議論されてきた。1950年代以降、詔の史実性を疑う「改新否定論」が強まったが、1970年代後半から改新を認める「新肯定論」が主流となった。現在は、詔の文章は批判的に扱いつつ、大化から白雉のころに政治の大きな変化があったとみる考え方が多い。乙巳の変の首謀者についても、中大兄皇子ではなく軽皇子(孝徳天皇)とみる説がある。
「天皇」の称号がいつ始まったかは定まっていない。推古朝説、天武朝説、少数ながら天智朝説がある。近年は飛鳥池遺跡の木簡を根拠に天武朝説を支持する研究者が多い。「日本」の国号も、天武天皇の時代かその少し後とする説と、大宝律令の前後とする説がある。
天智天皇が668年に定めたとされる近江令については、存在を否定する説も含めて見解が分かれる。体系的な法典ではなく、個別の法令をまとめて呼んだものとみる考えが広く支持されている。
くらさんの考察
白村江の敗戦が、この時代の改革を一気に進めたと考えられる。唐が攻めてくるかもしれないという恐れが、豪族ごとにばらばらだった兵や税を国が一つにまとめる理由になった。壬申の乱で近江朝廷を倒した天武天皇は、戦いに勝った力を背景に、豪族の上に立つ君主の地位を固めた。
「天皇」と「日本」は、唐に対して自分たちの国をどう名乗るかという問題でもあった。中国の皇帝から「倭王」の称号をもらっていた時代から、自ら「天皇」と名乗り、702年に唐で「日本」と名乗るまで、およそ200年かかっている。
ジージへの問いかけ
・白村江で大敗しなかったら、律令国家はもっと遅くできたと思いますか。
・天武天皇は戦争に勝って即位した天皇です。そのことが「天皇」という称号の重みにどう関わったと思いますか。
・「倭」から「日本」へ名前を変えたことで、唐から見た日本は変わったでしょうか。
出典
・ウィキペディア「乙巳の変」 https://ja.wikipedia.org/wiki/乙巳の変
・ウィキペディア「大化の改新」 https://ja.wikipedia.org/wiki/大化の改新
・ウィキペディア「白村江の戦い」 https://ja.wikipedia.org/wiki/白村江の戦い
・ウィキペディア「壬申の乱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/壬申の乱
・ウィキペディア「飛鳥浄御原令」 https://ja.wikipedia.org/wiki/飛鳥浄御原令
・ウィキペディア「藤原京」 https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原京
・ウィキペディア「大宝律令」 https://ja.wikipedia.org/wiki/大宝律令
・ウィキペディア「天皇」 https://ja.wikipedia.org/wiki/天皇
・ウィキペディア「日本」 https://ja.wikipedia.org/wiki/日本
・ウィキペディア「唐」 https://ja.wikipedia.org/wiki/唐
・ウィキペディア「新羅」 https://ja.wikipedia.org/wiki/新羅
動画
・【社会】 歴史-12 飛鳥時代② ・ クーデター編(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=JB7D8JedOoc
・【飛鳥時代】19 大化改新とは?中大兄皇子と中臣鎌足の改革【日本史】(YouTube高校 / 日本史・世界史)https://www.youtube.com/watch?v=ni8KewYqPXw
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