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No.6新着 奈良時代(710〜794年) 唐をお手本に、国の形と仏教の都をつくった80年

710年の平城京遷都から794年の平安京遷都までを奈良時代と呼ぶ。唐の制度をまねた国づくり、古事記・日本書紀による「国の歴史」の編さん、そして東大寺大仏に代表される仏教の国家事業が進んだ。一方で、土地の私有を認めた墾田永年私財法が、のちの荘園の出発点になった。

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出典を確かめた日
2026年10月19日
分野
奈良・平安(8〜12世紀)
立場
くらさんの考察
タグ
政治天皇・朝廷宗教文化・文字経済・暮らし外交中国朝鮮半島
地域
日本(奈良)、中国(唐)、朝鮮半島(新羅・渤海)
資料の種類
事典・概説
年代
710〜794年

本文と出典

この時代のあらまし

710年(和銅3年)、元明天皇は都を藤原京から平城京(いまの奈良市)へ移した。ここから、桓武天皇が784年に長岡京、794年に平安京へ都を移すまでのおよそ80年が奈良時代である。
この時代の政治は、唐の律令(法律と役所の仕組み)を手本にした「律令国家」を動かしていく段階にあった。ただし、都はずっと平城京にあったわけではない。740年に九州で藤原広嗣が挙兵して敗死すると、聖武天皇は740年から745年にかけて恭仁京、難波京、紫香楽宮へと都を移し、のちに平城京へ戻っている。政争と疫病の続く不安定な時代でもあった。
聖武天皇は、仏教の力で国を守ろうとした。諸国に国分寺を建てさせ、都には東大寺と大仏を造らせた。こうした仏教色の強い文化を、天平文化と呼ぶ。
土地の制度にも大きな変化があった。国が田を配る班田収授の仕組みだけでは耕地が足りず、723年の三世一身法、743年の墾田永年私財法で、新しく開いた田の私有を認めていく。これが平安時代の荘園につながっていく。

主なできごと

・710年(和銅3年) 元明天皇、平城京へ遷都
・712年(和銅5年) 『古事記』が太安万侶によって献上される(序文による)
・717年 遣唐使が出発(総勢557人。阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉らが入唐)
・720年(養老4年) 『日本書紀』30巻が撰上される
・723年(養老7年) 三世一身法
・740年(天平12年) 藤原広嗣の乱。以後745年まで恭仁京・難波京・紫香楽宮へ都を移す
・743年(天平15年) 墾田永年私財法。同年、紫香楽宮で大仏造立の詔
・752年(天平勝宝4年) 東大寺大仏の開眼供養
・753〜754年 鑑真が6度目の渡航で来日し、754年に平城京に入る
・756年 光明皇后が聖武天皇の遺品を東大寺の大仏に献納(のちの正倉院宝物)
・784年 長岡京へ遷都
・794年 平安京へ遷都

文字の記録から分かること

『古事記』は上・中・下の3巻で、神代から推古天皇までを扱う。序文によれば、天武天皇の命で稗田阿礼が読み覚えた古い記録を、太安万侶が文字にまとめた。漢字の音を一字ずつ当てて歌謡や固有名詞を書いている点に、日本語を漢字で書き表そうとした苦労が見える。一方、『日本書紀』は720年に撰上された30巻の歴史書で、国の正式な歴史(正史)として編まれた。
墾田永年私財法の中身は、『続日本紀』に残る。新しく開いた田を永久に私有してよいとし、私有できる広さを位階に応じて10町から500町までと定め、開墾には国司の許可を必要とした。ところが平安時代にまとめられた法令集『類聚三代格』に収められた文では、この面積の上限の部分が削られている。同じ法令でも、どの史料で読むかで中身が違う例である。
正倉院には、光明皇后が756年に東大寺へ納めた聖武天皇の遺品をはじめ、約9,000点が伝わる。宮内庁の正倉院事務所が管理している。白瑠璃碗はササン朝ペルシアの作とみられているが、宝物の9割以上は日本で作られたもので、外国風の意匠を取り入れている。

世界では

奈良時代は、唐が最も栄え、そして大きく揺らいだ時期にあたる。遣唐使は630年に始まり、奈良時代にはおよそ20年に1度、通常4隻の船で送られた。阿倍仲麻呂は唐で官人となり、そのまま唐で生涯を終えた。
唐の西の端では、751年にタラス河畔で唐軍がイスラム世界のアッバース朝に敗れた。この戦いで中国の製紙法が西方へ伝わったという話があるが、根拠は10世紀の記録で、異論もある。
755年には唐で安史の乱が起こり、763年まで続いた。日本はこの知らせを、758年に渤海から帰国した小野田守の報告で知った。藤原仲麻呂の政権は大宰府に警戒を命じ、唐の力が弱まったとみて新羅を討つ準備まで進めたが、仲麻呂が乱を起こして処刑されたため取りやめになった。
朝鮮半島の新羅とは、どちらが上かをめぐって衝突が続き、779年を最後に使節の往来が途絶えた。その北の渤海とは727年から使節が行き来し、日本は渤海に朝貢の形を求めた。
鑑真は唐の高僧で、743年から748年まで5回渡航に失敗し、その途中で両目を失ったと伝わる。6度目の渡航で753年末に九州に着き、754年に平城京に入った。同年4月に東大寺大仏殿に戒壇を築いて約400人に菩薩戒を授け、759年に唐招提寺を開いた。763年に唐招提寺で亡くなっている。

評価の分かれる点

・遣唐使の回数は、12回説から20回説まで研究者によって数え方が違う。
・墾田永年私財法の「許可から3年以内」が、開墾を終えることなのか、着手すればよいのかで解釈が分かれる。法の狙いを、荒れた田の復興策とみるか、橘諸兄政権の政治的な意図とみるかも分かれる。
・『古事記』には、『続日本紀』に成立の記事がないことなどから偽書説も唱えられてきた。ただし、太安万侶の墓誌が見つかったことで、偽書説の論拠の一部は否定されている。
・大仏に使われた銅は約500トンと推定されるが、記録によって数字に幅がある。

くらさんの考察

奈良時代の国づくりは、唐のまねで始まり、まねでは回らない部分が見えてきた時代と考えられる。人口に応じて田を配る班田の仕組みは、開墾を進める力が弱い。そこで国は、私有を認めてでも田を増やす道を選んだ。墾田永年私財法は、律令の原則を自ら崩す法令だった。
大仏造立も、同じ流れで読める。反乱と遷都の繰り返しのなかで、聖武天皇は仏の力にすがった。ただ、造立の詔を出したのが墾田永年私財法と同じ743年であることは偶然ではないと考えられる。大事業には人手と財源が要り、その裏で土地の私有が認められ、寺社や有力者が田を広げていく。
唐の安史の乱を日本が渤海経由で知り、それを新羅を討つ好機と考えたという話は、当時の日本が東アジアの力関係を見ながら動いていたことを示している。日本は島国だが、孤立はしていなかった。

ジージへの問いかけ

・お手本にした唐が内乱で傾いたとき、日本の為政者は何を考えたのだろう。
・土地の私有を認める法令が、なぜ「国の仕組みを崩す」方向に働いたのか。
・鑑真は失明してまで日本に来た、と伝わる。何が人を海の向こうへ向かわせたのだろう。

出典

・ウィキペディア「奈良時代」 https://ja.wikipedia.org/wiki/奈良時代
・ウィキペディア「古事記」 https://ja.wikipedia.org/wiki/古事記
・ウィキペディア「墾田永年私財法」 https://ja.wikipedia.org/wiki/墾田永年私財法
・ウィキペディア「東大寺盧舎那仏像」 https://ja.wikipedia.org/wiki/東大寺盧舎那仏像
・ウィキペディア「鑑真」 https://ja.wikipedia.org/wiki/鑑真
・ウィキペディア「遣唐使」 https://ja.wikipedia.org/wiki/遣唐使
・ウィキペディア「正倉院」 https://ja.wikipedia.org/wiki/正倉院
・ウィキペディア「安史の乱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/安史の乱
・ウィキペディア「タラス河畔の戦い」 https://ja.wikipedia.org/wiki/タラス河畔の戦い

動画

・【社会】 歴史-14 奈良時代① ・ 基本編(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=9uRJ4YGbxWA
・【奈良時代】26 忙しい人のための奈良時代【日本史】(YouTube高校 / 日本史・世界史)https://www.youtube.com/watch?v=a-EqZb_Mpvk

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