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No.7新着 平安時代前半と摂関政治(794年〜11世紀半ば) 藤原氏が天皇の外戚として政治を握り、かな文字の文学が花開いた

794年の平安京遷都から、藤原道長・頼通の時代までをたどる。藤原氏は娘を天皇の后にして摂政・関白の地位を握り、遣唐使は9世紀末に途絶えた。地方では平将門・藤原純友の乱が起き、武士が表舞台に出てくる。宮廷ではかな文字で源氏物語や枕草子が書かれた。

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出典を確かめた日
2026年10月19日
分野
奈良・平安(8〜12世紀)
立場
くらさんの考察
タグ
政治天皇・朝廷戦争・争い武士文化・文字外交人物中国朝鮮半島
地域
日本(京都・関東・瀬戸内)、中国(唐・宋)、朝鮮半島(新羅・高麗)
資料の種類
事典・概説
年代
794年〜11世紀半ば

本文と出典

この時代のあらまし

794年(延暦13年)、桓武天皇は都を平安京に移した。ここから鎌倉幕府ができるまでのおよそ390年を平安時代と呼ぶ。この記事では、そのうち前半、藤原氏の摂関政治が頂点に達する11世紀半ばまでを扱う。
桓武天皇は東北の蝦夷を従わせることに力を入れ、坂上田村麻呂を征夷大将軍として送った。9世紀半ばからは藤原氏が力を伸ばす。858年に藤原良房が摂政となり、880年には藤原基経が関白となった。摂政は幼い天皇の代わりに政治を行う役、関白は大人の天皇を補佐する役である。藤原氏は娘を天皇の后にし、生まれた皇子を天皇に立てて、天皇の母方の祖父(外祖父)として政治を動かした。
藤原氏と張り合った者は退けられた。菅原道真は、901年に藤原時平との対立に敗れて九州の大宰府へ左遷された。
10世紀には地方で大きな反乱が起きる。関東の平将門と瀬戸内の藤原純友の乱(承平天慶の乱)である。これを鎮めたのも武芸を家の仕事とする者たちで、ここから武士が政治の表舞台に出てくる。
11世紀初め、藤原道長が摂関政治の頂点に立つ。同じころ、宮廷の女性たちがかな文字で物語や随筆を書き、国風文化と呼ばれる日本独自の文化が育った。

主なできごと

・794年(延暦13年) 平安京へ遷都
・858年 藤原良房が摂政となる
・866年 応天門の変
・880年 藤原基経が関白となる
・894年 菅原道真が遣唐使の派遣を見直すよう建議
・901年(昌泰4年) 菅原道真、大宰府へ左遷(昌泰の変)
・907年 唐が滅びる
・939年(天慶2年) 平将門が関東の国司を任じて「新皇」を名乗る
・940年 平将門、平貞盛・藤原秀郷らに討たれる
・941年 藤原純友、博多湾で敗れ、のちに捕らえられて獄中で没する
・995年(長徳元年) 藤原道長が内覧となる
・1001年ごろ 『枕草子』がほぼ完成していたとされる
・1008年(寛弘5年) 『紫式部日記』に『源氏物語』の冊子づくりの記事
・1016年(長和5年) 道長、後一条天皇の摂政となる
・1018年(寛仁2年) 道長の娘・威子が中宮となり、祝宴で「この世をば」の歌
・1019年(寛仁3年) 刀伊の入寇

文字の記録から分かること

道長の権勢を伝える一番有名な記録は、道長自身のものではない。右大臣藤原実資の日記『小右記』である。1018年、三女の威子が後一条天皇の中宮となり、長女彰子(一条天皇の中宮)、次女妍子(三条天皇の中宮)と合わせて、一つの家から三人の后が立った。実資はこれを「未曾有」と記し、その祝宴で道長が詠んだ「この世をば」で始まる歌を書きとめた。道長自身の日記『御堂関白記』も自筆本14巻が陽明文庫に伝わる。なお道長は関白には就いていないが、「御堂関白」と呼ばれた。
『源氏物語』は全54帖で、作者は紫式部とするのが通説である。根拠は『紫式部日記』で、1008年に物語の冊子を作っている様子が書かれている。紫式部は道長の娘・彰子に仕えた。『枕草子』は清少納言の作で、清少納言は一条天皇のもう一人の后・定子に仕えた。ものの名前を並べた章段、季節や日常を書いた章段、定子の宮廷を振り返った章段からなる。道長の娘と、道長に押しのけられた家の娘、それぞれの后のもとで二つの名作が生まれた。
平仮名・片仮名が生まれたのもこの時代である。漢字の音や形をくずして日本語をそのまま書けるようにしたことで、女性たちの物語や日記が書かれるようになった。

世界では

遣唐使は9世紀末に途絶える。894年、菅原道真は、唐は内乱で衰え、渡ってからも危険があるとして、派遣するかどうかを議論するよう求めた。その後派遣は行われず、907年に唐は滅びた。
中国では五代の分裂をへて、960年に趙匡胤が宋を建てる。日本と宋の間に正式な国交は結ばれなかったが、博多などに宋の商人が来航し、私的な貿易が盛んになった。遣唐使という国の事業がなくなっても、人と物の行き来は商人の船で続いた。
朝鮮半島では、918年に王建が高麗を建て、935年に新羅が降り、936年に半島を統一した。高麗は北方の契丹(遼)と993年から1019年まで戦いを繰り返した。1019年、女真族の一派とされる「刀伊」が海賊として対馬・壱岐・筑前を襲った(刀伊の入寇)。大宰権帥の藤原隆家が撃退を指揮し、撤退した刀伊は高麗の水軍に壊滅させられた。高麗は日本人捕虜約300人を救い出して送り返している。朝廷は当初、新羅の侵攻と疑っており、高麗への警戒を解かなかった。

評価の分かれる点

・「894年に遣唐使を廃止した」と長く教えられてきた。しかし1990年に石井正敏が、『日本紀略』の「其日、遣唐使を停める」という記述は根拠が弱く、その日に停止を決めた事実はないと論じ、この見方がおおむね支持されている。道真はその後も遣唐大使の肩書きを持ち続け、記録上は897年まで確認できる。正式にいつ停止されたかははっきりしない。
・『源氏物語』の作者は紫式部とするのが通説だが、宇治十帖を娘の大弐三位の作とする古い言い伝えや、複数の作者を考える説もある。少数説だが、後から書き足された部分があるかどうかは今も議論がある。
・承平天慶の乱は、律令国家の衰えと武士の興りを象徴するできごととされる。ただ、乱を起こした側も鎮めた側も、武芸の家として朝廷に認められたい者たちだった点に注意がいる。

くらさんの考察

摂関政治は、天皇の位を奪うのではなく、天皇の家族になることで力を握る仕組みだったと考えられる。娘が皇子を産むかどうかで家の浮き沈みが決まるので、后の周りには教養のある女房が集められた。紫式部も清少納言も、その競争のなかで筆をとった。華やかな文学の裏に、后どうしの政治があった。
遣唐使が途絶えたことで国風文化が育った、と説明されることが多い。しかし宋の商人による貿易は続いていた。外国との縁が切れたのではなく、国が使いを出す形から、商人が行き来する形に変わったと見るほうが実態に近いと考えられる。
都で藤原氏が后の座を争っていたころ、関東では平将門が「新皇」を名乗り、九州では刀伊の撃退を地元の武者が担っていた。都の政治と地方の武力の距離が開いていく。それが次の院政と武士の時代の下地になる。

ジージへの問いかけ

・天皇の位をとらずに「外祖父」になる、という藤原氏のやり方は、なぜ長く続いたのだろう。
・紫式部と清少納言は、仕えた后が対立する家の娘だった。二人の作品の違いに、それは表れているだろうか。
・国の使節が途絶えても、商人の船が来ていた。国の交わりと民間の交わりは、どちらが文化を動かすのだろう。

出典

・ウィキペディア「平安時代」 https://ja.wikipedia.org/wiki/平安時代
・ウィキペディア「遣唐使」 https://ja.wikipedia.org/wiki/遣唐使
・ウィキペディア「承平天慶の乱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/承平天慶の乱
・ウィキペディア「藤原道長」 https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原道長
・ウィキペディア「源氏物語」 https://ja.wikipedia.org/wiki/源氏物語
・ウィキペディア「枕草子」 https://ja.wikipedia.org/wiki/枕草子
・ウィキペディア「宋 (王朝)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/宋_(王朝)
・ウィキペディア「日宋貿易」 https://ja.wikipedia.org/wiki/日宋貿易
・ウィキペディア「高麗」 https://ja.wikipedia.org/wiki/高麗
・ウィキペディア「刀伊の入寇」 https://ja.wikipedia.org/wiki/刀伊の入寇

動画

・【社会】 歴史-18 平安時代② ・ 新しい政治編(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=_SFeBrdNCLw
・【平安時代】37 忙しい人のための平安時代【日本史】(YouTube高校 / 日本史・世界史)https://www.youtube.com/watch?v=VH9_SVuYmhY

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