No.8新着 院政と武士の台頭(1086〜1185年) 上皇が政治を握り、争いを武士が決めるようになった
白河天皇が位を譲って上皇となり、天皇の父や祖父として政治を握る院政が始まった。朝廷の内輪もめを武士の力で決着させた保元・平治の乱をへて、平清盛が太政大臣となり、日宋貿易で富を集める。しかし反平氏の挙兵が全国に広がり、1185年の壇ノ浦で平氏は滅んだ。
本文と出典
この時代のあらまし
応徳3年(西暦では1086年とされることが多い)、白河天皇は8歳の堀河天皇に位を譲って上皇となり、その後も後見として政治を続けた。これが院政の始まりとされる。院政とは、位を退いた上皇(出家すれば法皇)が、天皇の父や祖父として政治を動かすやり方である。藤原氏の摂関政治が「母方の祖父」の力だったのに対し、院政は「父方」の力で政治を握った。白河上皇は堀河・鳥羽・崇徳の3代にわたって院政を行い、その期間は43年に及んだとされる。
上皇は、北面の武士という自前の武力を持ち、平氏を中心とする武士を取り立てた。上皇のもとには寄進された荘園が集まり、それが財源になった。
院政が鳥羽上皇、後白河上皇と続くうちに、皇族と藤原氏の内輪もめが武力で決着するようになる。1156年の保元の乱と、続く平治の乱である。この二つの乱を勝ち抜いた平清盛が、武士として初めて朝廷の頂点近くに立った。
清盛の一門は、全国に500余りの荘園を持ち、宋との貿易で富を集めた。しかし後白河法皇を閉じ込めるなど強引な政治に反発が広がり、1180年の以仁王の挙兵をきっかけに6年に及ぶ内乱となる。1185年、壇ノ浦の戦いで平氏は滅んだ。
主なできごと
・1086年(応徳3年) 白河天皇、堀河天皇に譲位。院政の始まりとされる
・1129年 白河法皇が没する
・1156年(保元元年)7月 保元の乱
・平治元年12月(西暦1160年1月。1159年と書かれることも多い) 平治の乱
・1167年(仁安2年) 平清盛が太政大臣となる(3か月で辞任)
・1171年 清盛の娘・徳子が入内し、のちに高倉天皇の中宮となる
・1173年 大輪田泊(いまの神戸市)が拡張される
・1179年(治承3年)11月 治承三年の政変。後白河法皇を幽閉し院政を止める
・1180年 以仁王の挙兵。安徳天皇の践祚。福原への遷都(11月に京へ戻る)。8月に源頼朝が伊豆で挙兵、10月に鎌倉へ入る。富士川の戦い
・1181年 清盛が没する。この年から翌年にかけて養和の飢饉
・1183年7月 木曽義仲が入京し、平氏は安徳天皇と三種の神器を伴って西国へ逃れる
・1184年2月 一ノ谷の戦い
・1185年2月 屋島の戦い
・1185年3月24日 壇ノ浦の戦い。平氏が滅び、安徳天皇が入水
文字の記録から分かること
白河法皇の権力を表す話として、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話が『平家物語』巻一にある。賀茂川の洪水、すごろくのサイコロの目、比叡山延暦寺の僧兵の三つ以外は思いどおりだった、という意味でよく引かれる。ただ、洪水やサイコロは誰にもどうにもならないものだが、僧兵は神の意志をかかげて都に押しかける「政治」であり、延暦寺に手を焼く法皇の本音が出ているという読み方もある。
保元の乱については、慈円の歴史書『愚管抄』が、この乱から「武者の世」になったと論じている。乱の当事者に近い時代の人が、すでに時代の変わり目と見ていたことが分かる。
保元の乱では、敗れた側の武士、平忠正や源為義らが処刑された。死刑は薬子の変のあと長く行われていなかったので、これが死刑の復活となった。崇徳上皇は讃岐へ流された。
世界では
平清盛の富の源は、宋との貿易だった。日本と宋の間に正式な国交はなかったが、清盛は大輪田泊を整え、宋の船が博多を経ずに瀬戸内の奥まで来られるようにした。宋からは宋銭、陶磁器、絹織物、書籍、薬、香料などが入り、日本からは金や銅などの鉱物、木材、刀、硫黄などが出ていった。宋銭が大量に入ってきたことで、日本でも銭を使う暮らしが広がっていく。
その宋は、この時代に大きく姿を変えた。1127年、北方の金が都の開封を落とし、皇帝の欽宗と父の徽宗を連れ去った(靖康の変)。宋は南へ逃れて臨安(いまの杭州)を都とし、南宋となる。宋の側の記録では、靖康の変のあと江南の森林が荒れて木材が足りなくなり、日本から木材を買い、その代わりに宋銭が日本へ流れ出たとされる。清盛の貿易の背景には、中国の王朝の交代があった。
同じころ、ヨーロッパでは十字軍が始まっていた。1095年に教皇ウルバヌス2世がクレルモンで聖地エルサレムの奪回を呼びかけ、1099年に十字軍はエルサレムを占領した。しかし1187年、イスラム側のサラディン(サラーフッディーン)がエルサレムを取り戻す。日本で平氏が滅んだ1185年は、ちょうどその直前にあたる。日本と十字軍の間に直接のつながりはないが、宗教と武力が結びついて大きく動いた時代という点で、比べてみる値打ちはある。
評価の分かれる点
・院政の始まりは1086年とするのが一般的だが、後三条天皇や、さらに古い宇多・円融天皇の時代に先がけを見る説もある。白河天皇の譲位の日付は、西暦に直すと1087年1月になるため、資料によって1086年と1087年の両方が見られる。
・院の政治をどこまで「院庁」という役所が担ったかについては、近年は院の側近(院の近臣)を通じて上皇が指図した面を重く見る見方が有力である。
・「源平合戦」という呼び方は『平家物語』などから広まったもので、実際には寺社や地方の豪族も反平氏で立ち上がり、源氏どうし・平氏どうしの争いもあった。研究では「治承・寿永の乱」と呼ぶことが多い。
くらさんの考察
院政は、摂関家から政治の主導権を取り戻す仕組みとして始まったと考えられる。ところが上皇自身が武士を雇い、荘園を集めたことで、上皇もまた武力と土地に頼る存在になった。保元の乱は、天皇と上皇、摂関家の兄弟がそれぞれ武士を抱えて争った戦いで、勝敗を決めたのは武士だった。慈円が「武者の世」と書いたのは、武士が貴族の争いの道具から、結果を左右する主役に変わったという実感だろう。
平清盛は、武士でありながら太政大臣になり、娘を天皇の后にして孫を天皇にした。やり方は藤原氏の摂関政治とよく似ている。新しかったのは、宋との貿易と宋銭という、土地とは別の富の源を握ったことだと考えられる。
しかし、平氏は京の貴族社会のなかで力を持ったぶん、地方の武士の不満を受け止めきれなかった。頼朝が京に上らず鎌倉にとどまったのは、平氏の失敗を見ていたからだと考えられる。
ジージへの問いかけ
・白河法皇の「思いどおりにならない三つ」に、比叡山の僧兵が入っているのはなぜだろう。
・清盛は藤原氏と同じように娘を后にした。武士が貴族のまねをしたことは、強みだったのか弱みだったのか。
・宋の都が金に落とされたことが、日本の銭の歴史にまでつながっていた。ほかにも、外国の事件が日本の暮らしを変えた例はあるだろうか。
出典
・ウィキペディア「院政」 https://ja.wikipedia.org/wiki/院政
・ウィキペディア「白河天皇」 https://ja.wikipedia.org/wiki/白河天皇
・ウィキペディア「保元の乱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/保元の乱
・ウィキペディア「平治の乱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/平治の乱
・ウィキペディア「平清盛」 https://ja.wikipedia.org/wiki/平清盛
・ウィキペディア「治承・寿永の乱」 https://ja.wikipedia.org/wiki/治承・寿永の乱
・ウィキペディア「日宋貿易」 https://ja.wikipedia.org/wiki/日宋貿易
・ウィキペディア「宋 (王朝)」 https://ja.wikipedia.org/wiki/宋_(王朝)
・ウィキペディア「十字軍」 https://ja.wikipedia.org/wiki/十字軍
動画
・【社会】 歴史-20 平安時代④ ・ 武士の登場編(とある男が授業をしてみた)https://www.youtube.com/watch?v=W1iPPxw-Aao
・【平安時代】58 白河院政期と鳥羽院政期【日本史】(YouTube高校 / 日本史・世界史)https://www.youtube.com/watch?v=cryr8TEuVOs
関連動画
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